【第247回】『回路』(黒沢清/2000)

 1995年頃、黒沢は『DOOR3』で脚本を共同執筆した小中千昭と、篠崎誠は、幽霊侵略もので一つの草案を書き上げる。それは『未知との遭遇』や『ボディー・スナッチャーズ』のような宇宙人侵略ものに近いイメージで、超能力を研究する心理学者と刑事の2人が主人公となる物語だった。神隠しのように人が消える不思議な現象が全国各地で多発し、心理学者と刑事はやがて幽霊が人間を殺しているのだと気付く。旅客機が突然墜落するが、乗客が一人も見つからないという不可思議な事件が起こり、ボイスレコーダーを回収して調査すると、赤い雨が降り、乗客全員が消えたという。クライマックスは心理学者が女性大生と共にボートで海へ漕ぎ出し、刑事はダライ・ラマが宇宙船で逃げるという情報を聞きつけ、何とかチベットへ旅するという突飛な物語だった 笑。案の定、勢いで書き上げたシナリオはどこかの会社に却下され、この草案はあっけなく流れた。

しかしながら世は『リング』の大ヒットに端を発する、空前のジャパニーズ・ホラー・ブームであり、黒沢にもホラー映画のプロジェクトが持ちかけられる。ここで何かネタはないかと考えた黒沢が、ボツになった幽霊侵略ものの草案を思い出し、それを修正することで今作の『回路』は誕生した。もともとの幽霊侵略ものの草案の中に、インターネットは出て来ない。それは出資側の要請で、『リング』はテレビから貞子が出て来たが、こちらもインターネットはどうかと提案されてのものだった。その頃の黒沢はインターネットはおろか、パソコンもやったことがないようなアナログ人間だった。そう、加藤晴彦のようなインターネットに対して無知・無関心な人間だったのである。

ところでこれまでの黒沢清のフィルモグラフィを眺めてみて、いったい何本の映画がホラー映画であると言えるだろうか?『スウィート・ホーム』は純然たるホラー映画に間違いない。『DOOR3』もホラー映画だろう。『奴らは今夜もやってきた』や『地獄の警備員』は一応はホラー映画だが、ジャンルとしてはスプラッター映画に近い。『CURE』も幽霊はまったく出て来ない。あれは一種の猟奇殺人ものに近い。霊という一文字の入る『降霊』も純然たるホラー映画ではない。生きている人間がやがて死に、自分を殺した夫婦に復讐をする。それはホラー映画の中でも「怪談」のカテゴリーに属する話である。あの映画は怪談+フィルム・ノワールのようなB級映画のイメージだろう。このように、黒沢清の映画の中で明らかにホラー映画と思われる作品はあまり多くない。この頃の黒沢清に貼られた「Jホラー映画の巨匠」というレッテルは何かの間違いだと思う。  閑話休題。

屋上で観葉植物を栽培し、販売する会社に勤務するミチ(麻生久美子)の同僚の田口(水橋研二)が展示会まであと僅かなのに、無断欠勤を繰り返している。会社の同僚であるミチや順子や矢部くんは田口の安否を気遣うが、代表してミチが彼の家に行くことに。家につくとカギはかかっておらず、中には田口がいて、展示会の資料は出来ているから適当に持って行ってと気の無い返事をする。

今作は「かつてこんなことがあった」という回想形式の物語である。船長である役所広司が麻生久美子を連れ、海へと飛び出す。そこで遠くを見つめながら、麻生久美子と役所広司は何かを考えている。そして麻生久美子の「かつてこんなことがあった」という独白が始まるのである。冒頭から『CURE』で精神病院までの道程に出て来たスクリーン・プロセスにより作られたバスの中の風景が、また違う形で本領発揮となる。彼女はもはや後戻りすることが出来ない運命へと足を踏み入れたのだと実感する。田口の部屋は昼間なのに薄暗く、こちらも黒沢映画に頻繁に登場する半透明カーテンが空間と空間を隔てる。麻生久美子がこちらの部屋で田口の机からフロッピー・ディスクを探している時、あちらの空間では既に田口が首を吊って死んでいる。その様子を伝える音が聴覚に恐怖を訴えかける。今作は音が恐怖演出の伴奏となるのである。

そこからミチの周りでは連鎖的に次々に不可解な出来事が起こる。同僚であった田口の自殺を皮切りに、観葉植物販売会社の人間が次々に悲劇の死を遂げる。特に矢部くんが田口の家を訪れる場面はひたすら怖い。怖過ぎる。矢部くんは田口の気配を感じ、半透明カーテンの向こうの部屋を覗いてしまう。そこには壁に黒いシミが浮かんでいるのである。

映画はこの麻生久美子の周辺に起きた奇妙な物語と、大学の経済学部に通う川島亮介(加藤晴彦)の物語を並行して描写する。パソコンを始めてみようと思い立ち、モデムにつなごうと思うも、パソコンの知識のない亮介は上手く出来ない。すると強制的にサイトが現れ、「幽霊に会いたいですか」という謎のフレーズを目撃し狼狽える。ここでも『カリスマ』における「世界の法則を回復せよ」というメッセージや、『大いなる幻影』における「どうして誰も何にもしないの」というメッセージと同様に、主人公はパンドラの匣のフタを開けてしまう。彼は同じ大学の学部違いの春江に助けを求めるのである。

もともとこれは心理学者と刑事を主人公に想定した物語だった。黒沢清の映画においては、最初の2作『神田川淫乱戦争』と『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を除き、高校生や大学生などの若者はほとんど出て来ない。黒沢が徐々に年をとっていくにつれ、その傾向は顕著になっていく。90年代の黒沢映画では、役所広司や哀川翔や諏訪太朗や大杉漣、下元史朗といったおっさんたちが物語の中心となる。例外的に藤谷美紀や木内あきらや、『降霊』の緑の服の少女も出て来るが、彼女たちは物語上必要な設定としてそこにいるだけで、物語の推進力にはなり得ない。これは明らかに黒沢清が、若者を描くことを「避けて」きたからである。

黒沢清には妻がいるが、子供はいない。子供というのは当たり前に自分の身の回りにいるものではなく、黒沢にとっては空想上のキャラクターなのである。だからこそ避けてきたのだが、彼の態度が軟化した理由は、映画美学校での授業である。そこで実際に若い世代の人たちと交流することで、この人たちの未来に幸福な希望を持ち始めたのである。『ニンゲン合格』でも主人公の西島秀俊は24歳の若者だったが、ここで大胆に黒沢映画の主人公がオッサンから大学生に年齢が下がっていることに注目せざるを得ない。

また前作『降霊』のエントリでも述べたが、夫婦ものは前作で集大成としてやりきった感があった。だからこそ若者に手を伸ばしたのである。今作では菅田俊も風吹ジュンも役所広司もほとんど本線の物語に絡んで来ることはない。あくまで加藤晴彦や麻生久美子や小雪や有坂来瞳が自分たちの未来をどう切り開いていくかが推進力となっている。未来と言えば、クライマックスの前、加藤晴彦と麻生久美子が乗った車の中で、「なんか見えてきた未来が」と言う。黒沢映画が「未来」という言葉に刮目したのは今作が始めてであろう。ここに次作『アカルイミライ』への符号を見るのである。

映画は半分を過ぎたあたりから、『カリスマ』や『大いなる幻影』同様に、世界の秩序の崩壊やバランスの不均衡が露呈し始める。そこで問題となるのは世界vs個人であろう。コンビナートの鉄塔の上から躊躇なく飛び降りる人間の、落下の一部始終を据えたカメラは『大いなる幻影』以上に残酷である。またドアの通気口である隙間を赤いガムテープで塞ぐことが恐怖を演出する。その一連の流れを麻生久美子が目撃する中盤の決定的な場面から、物語はより混沌とした世界へ向かうのである。今作の怖さの本質は、そこに確かに存在した生身の人間が、ある日急に消滅してしまうことにある。開かずの間も黒いシミも、その身体の消失を『蠅男の恐怖』の物質電送機のようにおぼろげに明示する。こちら側の世界にいた人間が、ある日突然あちら側の世界へと行ってしまった。今作もやはり、こちら側の世界とあちら側の世界を隔てる一つの境界線が立ち現れるのである。

独特の色調は「銀残し」によって生み出されたものに他ならない。かつて宮川一夫が考案したフィルムの発色部分の銀を残す特殊な技法を用いることで、映像の暗部が非常に暗くなり、画面のコントラストが強く引き締まった映像になっている。今回久しぶりに35mmフィルムで観て、この「銀残し」の美しさをあらためて堪能した次第である。

しかしながら今作がいまひとつ解せないのは、過剰に詰め込みすぎた脚本上の設定にある。まず突っ込みたいのは、矢部くんが受信した田口からの電話の出処である。矢部くんは携帯電話で受信を確認し、電話を取るもそこで田口の「助けて」という声を聞く。これが矢部くんが田口の家に足を踏み入れる原因になるが、問題は回路の所在がインターネット回線であって、携帯電話ではないということである。この合理的説明がきちんと出来ていない。あとは麻生久美子の部屋で有坂来瞳が壁のシミになるのだが、風の流れに乗ってCGで粉々に砕け、蒸発していく。これは一言で言えばやり過ぎではないか?ホラー映画であるならば、風に乗って蒸発するよりも、その場に一瞬で黒いシミとして残った方が良い。明らかな演出上の過剰な判断であろう。

そして最も致命的なのは、このドラマが回想形式を叙述方法に取り入れているにも関わらず、武田真治が幽霊の真理を加藤晴彦に言い聞かせる場面で、回想に回想を重ねている点である。それは例の哀川翔と赤いテープの場面であるが、そこに来て黒沢清の語りはいつになく混乱している。この時の苦い経験を踏まえ、新作『岸辺の旅』では回想を回想として扱わない真に斬新な話法を獲得するに至る。

奇しくも今作は『ニンゲン合格』がベルリン、『カリスマ』がカンヌ、『大いなる幻影』がヴェネチアの3大映画祭に招待されたあと、もう一度カンヌに戻り、国際批評家連盟賞を受賞する。『CURE』を皮切りに国際舞台に打って出た黒沢清が、今作でいよいよその評価を決定的なものにする。残念ながら国内では大ヒットとは行かなかったものの、日本での商業的成果とは別に、世界的名声や作家的価値は今作でいよいよ高まっていくのである。

#黒沢清 #回路 #加藤晴彦 #小雪 #麻生久美子 #武田真治

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