【第235回】『勝手にしやがれ!! 英雄計画』(黒沢清/1996)

 『勝手にしやがれ!!』シリーズ最終作となった第六弾。前作のエントリでも触れたが、黒沢とケイエスエス側はパート5とパート6の2本撮りをもって、シリーズの打ち切りを決めていた。プログラム・ピクチュアへの思いを、1年間で6本撮りという猛烈なハイペースの中に落とし込み、表現したかったことの全てが今作には詰まっている。哀川翔、前田耕陽、洞口依子、大杉漣、それに毎回違う役柄で登場した諏訪太朗、三上剛史も含め、役者たちは明らかに第1作の時よりも肩の力が抜け、こなれてきている。

ある日、いつものようにヤクザに追いかけ回されていた雄次と耕作は、青柳(寺島進)という男に助けられる。青柳は決して雄次たちを助けたわけではなく、肩が当たった事実に我慢出来ずにヤクザと張り合うのだが、案の定ボコボコにされる。雄次と耕作は青柳の正義感に恩義を感じ、彼のやっている雨宮というヤクザを追放するための市民運動に加担するのである。だが雨宮という男と接した雄次は、彼がヤクザではなく、畳屋だと聞かされる。雨宮は近いうちにこの場所から去ることを決めているが、自分は最後の日までヤクザでいたいと雄次に懇願する。困った雄次は彼を追い出す役を買って出るはめになる。

運動が沈静化する中、青柳は自作自演で雨宮に打たれたことを偽装する。こうして雨宮の追い出しは成功し、青柳と雄次は救世主とされ街の人々から歓待を受ける。街の人々がカラフルな風船を飛ばす場面が実に素晴らしい。『大いなる幻影』の萌芽がここにも見て取れる。だがこの追い出しを経て、青柳と雄次の姿勢は180度反転し、2人の間にはどうしようもない隔たりが生まれてしまう。その後青柳が政治家となり、雄次は青柳訴追の犯人の濡れ衣を着せられることになる。何とも皮肉な2人の対比を描いた見事な脚本である。

息のあった役者たちの関係性の中で、ある人物の登場場面は明らかな緊張感に満ち溢れている。それは街出身の有力政治家に扮した藤田敏八の登場場面である。かつて『スウィートホーム』のエントリでも述べたように、当初黒沢が想起していた『スウィートホーム』の父親役には、既に藤田敏八でオファーが出ていたのである。しかしその草案は資金を捻出できず、企画の段階で頓挫。伊丹がキャスティングした山城新伍で新たな物語として再構築される。おそらくその頃から黒沢の中には、いつか藤田敏八を自作に起用したいという強い思いがあったに違いない。高校生時代の黒沢清少年にとって、日本映画における三大監督は、神代辰巳・深作欣二、藤田敏八だった。その頃から何度も藤田敏八の名前は出て来るだけでなく、当時彼の書いた批評文の中に、「藤田敏八主演で、『エクソシスト3』を撮りたかった」という文章がある。ここで黒沢は藤田敏八の役者としての強靭な振る舞いに賛辞を寄せている。92年に役者としてビートたけしに比肩しうる存在として藤田敏八の考察をしているのである。その藤田敏八扮する有力政治家が、青柳を気に入り、自分の傘下に向かい入れる。

前作『勝手にしやがれ!!成金計画』のラストの無人ショットを思い出して欲しい。雄次と耕作は旅支度を整え、急いでアジトを去る。具体的に明示されないものの、沖縄かどこかへ旅立っていく。あのラストの無人ショットのライト・コメディとは思えない不穏な空気と今作は地続きであり、パート1からパート4までに見られたユーモアは微塵もない。青柳は自分の真の目的を達成し、彼の自作自演に気付いた雄次たちをも街から追い出すことに成功する。1年後、そこに広がる世界は明らかにかつての雰囲気とは姿を変えている。まるで『回路』に見られた世界の崩壊のように、『カリスマ』に垣間見えた終末論のように、たった1年で世界は隔たっている。

諏訪太朗は街の支配者となってしまった政治家の青柳のポスターにスプレーで落書きをし、彼への怒りを表明する。相変わらず雄次は行方不明の中、街を出ようと決意した耕作が青柳の妹に最後の別れを言う場面の怒涛の8分間の長回しは、Vシネマ史上に残る名場面であろう。草むらの中に据えられたカメラが、黒沢お得意のシュプレヒコールの隊列を冷静に据える。人物の動線は用意周到に計算され、横移動と縦移動が合体した真にスペクタクルな運動へと帰結する。この名場面は明らかにテオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』への大胆なオマージュながら、雄次不在の中、シリーズ史上最高の高揚感を我々観客にもたらすのである。

当時、荒川区南千住にかつてあったこのロケ地を訪ねて行ったことがある。黒沢は当時、人工的なビル群やそびえ立つ高層マンションの間にひっそりと出来た、この絶妙なロケーションをフィナーレの舞台に選ぶ。物語はあらかじめここで繰り広げられる物語を想定して作られたものである。急激な都市開発により、ハゲタカのようになった土地。草むらの中にポツンポツンと一軒家が建ち、人影もまばらなこの土地を、直感的にスペクタクルの舞台に設定した黒沢の直感はあらためて凄い。きっと今ではビルやマンションが立ち並び、廃墟の街は姿を変えたに違いない。今作には90年代中期にしか成立し得なかった世界観が充満している。

ラスト・シーンはまるでジョージ・ロイ・ヒル『明日に向って撃て!』のブッチ・キャシディとサンダンス・キッドのように、周囲を警察に包囲される中、雄次と耕作は奥外へと出て行く。その瞬間、うたた寝する洞口依子は我に返り、入口の暖簾が風にたなびく。黒沢はこのシリーズを6本作ったことで、雄次と耕作の死を描くことがもはや出来なかった。まるでプログラム・ピクチュアの終焉とアメリカン・ニューシネマへの郷愁のようなシリーズの結びとなっているのである。

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