【第245回】『大いなる幻影』(黒沢清/1999)

 映画美学校は、ユーロ・スペースの代表である堀越謙三氏と、アテネ・フランセ文化センター主任の松本正道氏により、1997年に設立された。それはこれまでにあった日本映画大学(当時は日本映画学校)や、日本大学芸術学部映画学科や東京造形大学映画専攻領域とも違う、これからの日本の映画界を担う力を育成することを目的として設立された。黒沢は開校当時から講師として、万田、青山、塩田等とこの映画美学校に関わり、生徒たちと共に実習で1本の長編映画を撮ることになる。今作はその1期生たちの2年秋に制作された長編劇映画である。

プロの役者は武田真治、唯野未歩子、諏訪太朗の僅かに3名のみで、あとは学生たちと黒沢の盟友とも言うべき豪華なメンバーが友情出演している。黒沢は今作において、台詞は最小限に抑え、とにかく長回しで撮るという壮大な実験を学生たちと行っている。90年代、Vシネマやテレビ映画や商業映画の世界で量産体制に入り、ようやく『CURE』で世界のシネフィルに認められ、『ニンゲン合格』がベルリン映画祭に呼ばれ、『カリスマ』がカンヌに呼ばれ、もはや国際的知名度も安定期に入ったところで、このような自主映画を撮ったことには、ある種の驚きを禁じ得なかった。だが商業映画として会社側との折り合いを付ける必要のない自主映画を1本挟むことで、黒沢の21世紀はゆっくりと幕を開けるのである。

世紀末の喧騒も、新世紀を迎えた高揚感も過ぎ去った近未来の2005年。国内には様々な国籍を持つ人々が入り込み、更なる国際都市に変貌を遂げようとしている東京。恋人同士であるハル(武田真治)とミチ(唯野未歩子)は落ち着いた関係性を築きながらも、それぞれの不安を抱えていた。

冒頭、意表を突くような夜景のシーンが素晴らしい。アパートの二階から運び出した四角い箱はあまりにも重過ぎて、階段を転げ落ちるように凄い物音を立てる。今作はこの物々しい落下の場面でスタートする。ハルは自宅で友人と音楽制作会社を営んでいる。けれどハルはあまり作業には関わらず、プロデューサー的な立場でもう一人の作る楽曲を見守っている。その表情はこの世界に疲れたように見え、常に視線は下を向いている。木造アパートの部屋は明るい光が差し込む空間だが、そこでボーッとするハルの身体はゆっくりと消えていく。

この主人公に起きる何らかの予兆のように、今作では黒沢作品に頻繁に見られた幾つものホラー描写が、ホラーとはまったく関係ない使われ方をしている。ハルの恋人であるミチは、国外宛の郵便を専門に扱う郵便局に勤めている。彼女は窓口業務を担当しているが、どういうわけかそれぞれの窓口は半透明カーテンで仕切られ、差出人の顔を見ることは叶わない。薄暗い地下にある部屋でミチはコピーを取ろうと何度も試みるが、一向にコピー出来ない。どうしたものかと途方に暮れていると、彼女の後ろにこれまでいなかった幽霊のような女性が立っている。ミチは彼女を見た瞬間ぎょっとするが、その女はミチに向かってこうつぶやくのである。「どうして誰も何にもしないの」と。

この怪しい女の「どうして誰も何にもしないの」という言葉と、『カリスマ』における立てこもり犯が放った「世界の法則を回復せよ」という言葉は同じくらい重い。それは彼らの運命を決定付けてしまうほど残酷な言葉である。この女はその後もミチが屋上で作業をしていると、これ見よがしに作業の邪魔をしてくる。屋上の垣根を越えた女は、彼女に見せるかのように屋上から地上へと躊躇なく落ちていく。普通のホラー映画ならば、その後のミチは心的トラウマに悩まされ、見てはいけないものを見るはずだが、ミチの病状はその日早退した程度であり、あっという間にその事件から立ち直る。

『カリスマ』においては、主人公は森の中に生えた1本の木を守ろうとする勢力と、その木を伐採しようとする勢力の間を揺れ動いた。刑事はその対立する2つの勢力に対し、何か円満にやれることがあるのではないかと幸福な知恵を探る。今作においても、ハルとミチという一組のカップルは当初は円満な関係を築いているものの、何かがきっかけでその関係がゆったりと破綻し始める。その男女関係の破綻のリズムと、この世界の崩壊するリズムが何らかの因果関係をもっているところに本作の旨味はある。

ではハルとミチの破綻の要因とはいったい何であろうか?この決定的不和には幾つもの要因が重なっていると考えられる。1つは犬をハルが勝手に手放したこと。もう1つは子供が産めなくなる薬を互いがパートナーに黙って飲み続けていたことである。その象徴的場面として、ミチが下腹部を押さえながらゆっくりとベッドから落ちる場面がある。最後の1つはミチが勝手にハルと違う男に誘われ、マクドナルドで昼食を食べていたことだろう。明らかに怒ったハルは男を座席から引き摺り下ろし、強制退去させるが、ハルは決してミチを恫喝することはない。

黒沢作品においては、しばしば男性側が妻や恋人に対し、「ここではないどこか」へ行こうと持ちかけた。『CURE』では情緒不安定になった妻を「次の休みに沖縄へ行こう」と提案し、『蜘蛛の瞳』ではただ単に哀川翔が妻に対し、どこかへ行こうと持ちかけた。けれど今作においてはハルがミチに「ここではないどこか」へ行こうと持ちかけることはない。ミチは自発的に「ここではないどこか」へ行こうとするのである。

しかしながら、後半の空港への横移動の場面に明らかなように、ミチは何らかの理由で海外への渡航を禁じられているのである。空港内でのミチの呆然とした姿に見られたように、「ここではないどこか」へ行こうとすることは容易ではない。飛行機での海外脱出の夢は絶たれたかに見えたミチだったが、ハルを連れ立って今度は海を目指す。

あの海の色はオレンジで、大陸は黒く塗りつぶされていた地図だけが非常にわかりにくかったが、要するにユーラシア大陸は国と国の境目がなくなり、一つになっているのである。そしてその地図上に日本の姿はない。これは1999年の表現としていささか安易だったと言えなくもないが、世界における日本の価値はなきものとされているのである。ミチはその中でも希望を捨てず、海の向こうのユーラシア大陸を想うが、海の向こうから唐突に人間の白骨化した遺体が流れて来る。この光景を見たミチの心境は察するに余りある。彼女は「ここではないどこか」が紛争地帯だということを、その白骨化した骨を見ることで瞬時に察するのである。

ここで初めて、こちら側の世界とあちら側の世界が、まるで半透明カーテン1つ隔てた空間のように我々に提示される。偶然かもしれないが、『カリスマ』においても、『回路』においても、こちらの世界とあちらの世界とは明確に仕切られている。『勝手にしやがれ!!』シリーズの最終話であった『英雄計画』においては、現在の時勢から1年後に時を移した時、世界は崩壊のイメージを観客に抱かせた。『カリスマ』においても、今作においても、世界が一定の秩序を失った時どうなっていくのかということを黒沢は暗示している。その具象化した姿はハルとチンピラ3人組の対立であり、チンピラ達とシュプレヒコールに揺れるサッカー・サポーター達の不和であろう。長回しで撮られた両者の対立シーンは実に分かりやすいシンボリックな対立構造を仰ぐ。しかしながら今作はジャンル映画としての「メロドラマ」を愚直なまでに死守しようとする。クライマックスでは、初めてこの空間の仕切りを半透明カーテンにした意味を感じ取るが、それ以上に大いなる幻影となるばかりの恋人を救い出そうとするミチの行動に心打たれる。

今作を通じて、黒沢清が生徒達に身をもって伝えたかったことは何であろうか?それは脚本を厳密に書きたがる日本映画界の慣習への不敵な挑戦であり、即興の素晴らしさでなかったかと考える。黒沢は主演である武田真治と唯野未歩子には、この必要最小限の脚本で不具合が生じた場合は、自分たちのアドリブで台詞を付け足して構わないと告げていた。しかしながら寡黙な武田真治も唯野未歩子も遂に、映像を言葉で補うことはしなかったのである。今作は商業映画においては有り得ないミニマムな台詞と演出に満ちている。今作以降、黒沢の表現が明らかに足し算よりも引き算の表現に傾いていく。これは映画美学校の実習作品でありながら、明らかに黒沢映画としか形容しようのない野心に満ち溢れている。

#黒沢清 #武田真治 #唯野未歩子 #大いなる幻影 #ユーロスペース

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