【第287回】『ジャッキー・ブラウン』(クエンティン・タランティーノ/1997)

 今作で主演を務めたパム・グリアと言えば、70年代の黒人映画のセックス・シンボルである。アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズに受付係として雇われたところ、その美貌がB級映画作家であったジャック・ヒルの目に止まり、彼の作品に5本立続けに出演する。その4本目であり、70年代ブラックスプロイテーションの金字塔と言われる作品が1973年の『コフィー』である。看護婦のコフィ(パム・グリア)が、わずか11歳でドラッグに冒され、廃人同然となった妹の復讐のため、単身麻薬組織に立ち向かうことを決意する物語は荒唐無稽だが、そこにはお色気もガン・アクションもキャットファイトも全て含まれていた。

このジャック・ヒルという作家は日本ではあまり知られていないが、無名時代のコッポラの撮影監督を経験し、その後はロジャー・コーマンの門下生として数多くのB級プログラム・ピクチュアを手掛けた筋金入りのB級映画作家である。2本ほどホラー映画を撮った後、白人でありながら、当時局地的に流行していた黒人女囚モノに手を出しヒット。3本目の『残虐全裸女収容所』(凄い名前だ!!)で歌う囚人として印象に残る演技をしていたパム・グリアを『コフィー』では主演に据え、たった1人で麻薬シンジケートの黒幕へとたどり着く女の姿を描き、当時の黒人層の熱狂的な支持を得たのである。それどころかパム・グリアという女優は、当時白人の若者にとってもセックス・シンボルであった。グリアの白人にはない豊満な肉体、小麦色の肌、少し垂れたおっぱい、でかい乳輪、長い手足は少年期のタランティーノを魅了したことは想像に難くない。

しかしながら『コフィー』の大ヒットの後、ブラックスプロイテーション映画のブームはそう長くは続かなかった。70年代には数多くのB級プログラム・ピクチュアに出演したパム・グリアも80年代にはこの斜陽化の影響をモロに食う形で、出演作品が激減する。『アパッチ砦・ブロンクス』やスティーブン・シーガルの『刑事ニコ/法の死角』で元気な姿を見せていたものの、『コフィー』『フォクシー・ブラウン』以降は端役が続いた。そんなグリアの90年代の再評価を決定付けたのは、ジョン・カーペンターの『エスケープ・フロム・L.A.』やティム・バートンの『マーズ・アタック!』であったことは言うまでもない。70年代に低予算B級プログラム・ピクチュアで鮮烈な印象を残したイメージが名監督の頭の中に残像としてしっかり残っており、そのことが端役でありながら彼らの映画にオファーが続く要因となった。そのパム・グリア再評価の決定打として、今作『ジャッキー・ブラウン』の主人公にはパム・グリアが起用されることになる。

ロサンゼルス・コンプトン。ジャッキー・ブラウン(パム・グリアー)はメキシコの航空会社に勤めるスチュワーデス。安月給で苦しい生活のため、裏で武器密売人オディール・ロビー(サミュエル・L・ジャクソン)の隠し金の運び屋をつとめていた。オデールは刑務所を出たばかりで少しボケ気味の相棒ルイス・ガーラ(ロバート・デ・ニーロ)を連れて、保釈金融業者のマックス・チェリー(ロバート・フォースター)の元へ赴く。逮捕された配下のボーマンの保釈のためだったが、オデールは保釈されたボーマン(クリス・タッカー)の口を自ら封じ、ルイスに服従を誓わせた。

『コフィー』では昼間は看護師をしながら、夜は娼婦で稼ぐ2重生活だったが、今作も例外ではない。ジャッキー・ブラウンはスーツ姿もバッチリ決まったCAでありながら、実は運び屋として暗躍するという裏の顔を持っている。今作はタランティーノ作品としては初めて、エルモア・レナードの『ラム・パンチ』を原作としながらも、主人公の人物は白人から黒人へと変更している。これはタランティーノなりのブラックスプロイテーションへのオマージュなのである。『コフィー』では単純な白人vs黒人の図式化された構造から、実は黒人が黒幕なんだという意外性があったが、今作において、ジャッキー・ブラウンが怯えるのは、同じ黒人である銃の密売人オディールである。この黒人が黒人を搾取する構図は、今作の中で何度も繰り返される。ピンプと呼ばれる派手な衣装を着た黒人は、貧しい白人をも搾取しながら、ビッグ・ビジネスをしているのである。

ジャッキー・ブラウンの心強い味方となるロバート・フォスターのコクのある渋みや、マイケル・キートン扮するFBI捜査官など、癖は強いが頼りになるキャラクター造形もさることながら、今作ではむしろ敵役の人選こそ冴えに冴える。特にサミュエル・L・ジャクソンの刑務所時代の仲間で、最近銀行強盗の罪から出所したロバート・デ・ニーロの老いぼれぶりが絶妙である。タランティーノは『レザボア・ドッグス』でもハーヴェイ・カイテルを、『パルプ・フィクション』でもジョン・トラボルタやブルース・ウィリスを独特の人物造形でハリウッドに堂々蘇らせたが、今作のロバート・デ・ニーロの疲れ果てた演技は、悪役としてこれ以上ない存在感を放つ。また彼の相棒として体を預けるドラッグ・ジャンキー役のブリジット・フォンダもすこぶる良い。タランティーノはかつての有名俳優だけではなく、ピーター・フォンダの娘であるブリジット・フォンダや、キース・キャラダインとは異母兄弟のマイケル・ボーウェンなど、アメリカ映画の血筋にもこだわった配役を見せている。

今作も正面切ったアクション映画とはならず、悪と悪との恐るべき心理戦である。ジャッキー・ブラウンはオディールによって先んじて保釈されたボーマン(クリス・タッカー)が既に彼の手により消されたことを自覚しており、自分の運命も同じく銃殺刑に処されることを知っている。だからこそオディールと親しげに振舞いながらも、彼に決して油断しない。彼の性格を把握した上で、FBIや保釈業者と結託し、お互いwin-winの関係を続けながら、敵が油断する時を今か今かと待ちわびているのである。

『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』では登場人物たちの凶行が昼間に行われていたのに対して、二重生活を続けるジャッキー・ブラウンにとって、重要な事件は夜の闇の中で起こる。コンプトンの閑静な住宅街の中で、ホンダ製のシビックを乗り回し、デルフォニックスを愛聴するジャッキー・ブラウンは、夜の闇の中で粛々と包囲網を築いていく。

問題はこの程度の物語(失礼!)において、どうして155分もの時間を費やしてしまうかである。導入部分から人物の相関関係を明らかにする中盤まではある程度のテンポが維持されているものの、そこから先の敵との心理戦の描写が、良く言えばあまりにも丁寧に、悪く言えばあまりにも平板に描き過ぎている。90年代以降の活劇において、一発の銃撃も数100mのカーチェイスもないまま、ジリジリした心理戦が100分ほど続くのはあまりにも長いと言わざるを得ない。あのショッピング・モールの場面の三者三様の行動を丁寧に切り取った中盤の山場はあまりにも芸がない。言うまでもなく黒沢清が『トウキョウソナタ』でオマージュを捧げた名場面には違いないが、現代の作家ならば、もう少し省略してもバチは当たらないはずである。

前作までの過激な引用は鳴りを潜めているものの、ブリジット・フォンダとロバート・デ・ニーロがマリファナを吸引するかたわらで流れるブリジット・フォンダのお父さん主演の『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』だったり、『マッド・ドッグ/ファイアー・ガンを持つ豚ども』などのしれっとした引用が憎い。主題歌であるボビー・ウーマックの『110番街交差点』もバリー・シアーの同名映画の中で大々的に使用されていた。今作においてはまた、『コフィー』でサウンドトラックを全面的に指揮したROY AYERSの楽曲が劇中の効果的な場面で使用されているだけでなく、バート・レイノルズの『シャーキーズ・マシン』のオープニング・テーマだったRandy Crawfordの『Street Life』の引用など、実に渋いオマージュを捧げている。

しかしながら今作は、鼻息の荒かったタランティーノの目論見通りには残念ながらヒットしなかった。デビュー時から2,3年に1本のペースで作品を発表していたタランティーノのフィルモグラフィは、これから先およそ5年半ものブランクを余儀なくされる。この苦い経験が、2000年代のタランティーノの緩やかな作家性の変化に影響を及ぼしていたのは言うまでもない事実である。

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