【第454回】『風が踊る』(ホウ・シャオシェン/1981)

 閑散とした田舎の港町、船やボートは港にくくりつけられ、今日の出航の予定はない。風の強い海岸線をカメラを抱えながら1人の女が、あてもなく歩いている。少し離れたところでは男たちが何やら段取りを打ち合わせながら、「撮影禁止」と書かれた石壁で用を足している。男はそこに急ぎ足で近づいてくる女の姿を見つけ、慌ててスボンを上げる。港町の寂れた歩道には子供達の元気な声が聞こえて来る。道の真ん中に野糞を見つけた男の子たちは、野糞の先に爆竹を差し入れて、大人をからかおうとするが、通りがかったタイミングには爆発してくれない。慌てて野糞の様子を見に行った子供達の顔めがけ、野糞はタイミング悪く爆発する。そこに先ほどの男の「カット」の声が入る。どうやらこれはうらぶれた港町でのCM撮影の様子なのだとわかる。女は小高い丘に佇みながら、海岸線の風景をフレームに収めているが、ふいに上手側からあっという間に馬車が通り過ぎていく。荷台にはハーモニカで物悲しい曲を奏でる1人の男。この光景に釘付けになった女は、無意識に何枚もシャッターを切りながら、一目散に横切る馬車の後ろ姿を追いかける。実に詩的で並外れた導入場面を持つホウ・シャオシェンの2本目の監督作である今作は、処女作『ステキな彼女』同様、当時の国民的人気歌手だった鳳飛飛と鐘鎭濤、それにアンソニー・チェンの三角関係を主軸とした恋愛関係の物語である。

昔懐かしい行商人のキレの良い売り文句、監督であるローザイ(アンソニー・チェン)はその光景をフレームに収めようとするが、先ほど馬車で横切ったハーモニカ吹きの男クー・チンタイ(鐘鎭濤)のカメラ目線が気に障る。それは道路を離れて向かい側に立つヒロインで写真家であるシャオ・シンホエ(鳳飛飛)を一直線に見ているように感じられ、女は視線の行方を気にしている。監督にカメラ目線を注意するように告げられた助監督は、すぐに男の元に警告のために向かうが、その時に初めてクー・チンタイが目が見えないことを知らされるのである。その瞬間、びっくりして狼狽したシャオ・シンホエはクー・チンタイのことをあらためて発見するのである。目が見えない男とカメラマンの女の恋は、現実に見える世界と見えない世界を何度も行き来するかのように魅惑的である。ホウ・シャオシェンお得意の、経済発展目覚ましい台北とそれとは趣を異にする閉鎖的な田舎の港町の対比、田舎町に魅せられた女が交通渋滞激しい台北の街角で見つけたクー・チンタイの姿に、運転していたシャオ・シンホエは思わず走り出し、彼の元へと一目散に駆けよる。横断歩道を渡ろうと手を引っ張るヒロインの姿に、待ったをかける目の見えない男。「新公園で占いをするんだ」と告げた男の困惑に女は頷き、静かな恋が幕を開ける。

そこから先の展開は前作と同じように、危うい三角関係の中を揺らぐ微妙な女心の往来を丁寧に描写する。女がクー・チンタイを被写体に、黙々と撮影に夢中になる横で警察にレッカーされる車のユーモア、目の見えない人たちに読んで聞かせる『カラマーゾフの兄弟』の朗読会におけるしくじりと声の早送りの微笑ましさ、父親の来訪時、女が男の手を引くことを嗜められるが、男が目が見えない人であることを聞いた父親の唐突な驚き、同棲相手の監督との微妙な距離感、思わず顔が綻ぶような電話でのやりとり、途中シンホエが弟の代理教員として鹿谷に赴任する場面では、瑞々しい授業風景や子供達のあどけない言動・表情も見られる。ホウ・シャオシェンは明らかに台湾の移ろいゆく時代の経過を自らのフィルムの中に積極的に収めようとする。だからこそ今、ショットの一つ一つを観ても胸が締め付けられるような錯覚に陥る。『冬冬の夏休み』同様にここでも『仰げば尊し』のメロディが紡がれ、子供達は朗らかに歌う。だがそこに付けられた字幕のフレーズは日本で歌われている『仰げば尊し』とはまったく趣を異にする。これは『仰げば尊し』を元にして、台湾の子供達が身近な食べ物を歌った替え歌なのである。前作同様に、ここでも台湾の外省人だったホウ・シャオシェンの生い立ちが関係している。彼の家族は国民党政府の台湾への移転に伴い、中国大陸から台湾へと渡った外省人であり、本省人ではない。処女作『ステキな彼女』では外省人のヒロインが同じく外省人と結ばれていたが、今作では本省人のヒロインが、外省人を出自に持つ本省人との恋愛結婚に意欲的になる。ステレオタイプな恋愛模様の中に、密かに歴史への眼差しを加えたホウ・シャオシェンの歴史観があまりにも興味深い。

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