【第563回】『言の葉の庭』(新海誠/2013)

 6月、雨の日の水溜りに出来た小さな波紋、朝方の都心を列車が走る音、制服の裾を濡らす誰かの傘、誰かのスーツに染み付いたナフタリンの匂い、背中に押し付けられた体温、顔を吹き付けるエアコンの風。高校生の秋月孝雄(声=入野自由)は雨の日になると、満員電車の喧騒が嫌で1限は授業をサボって、雨宿り出来るとある場所で靴のデザインを考えていた。新宿副都心のビルディング街、傘を差した人たちが行き交う交差点、タカオは都心の喧騒を離れ、今日も新宿御苑にやって来る。物々しい入り口、飲酒禁止の文字。散歩がてら少し歩くと、雨宿りの出来るウッド・スペースがあるが、今日に限ってそこには先客がいる。その手に握られた板チョコレートと発泡酒。昼間からビールに甘いもので休憩を取るパンチの効いた女の姿に圧倒されながらも、タカオは対になった椅子に座る。いつものようにスケッチしながら、女の足を見つめるタカオの目。ビジネススーツの裾から覗く足首は色白で、女性らしく細く引き締まっている。「どこかで会いませんでしたか?」というタカオの問いかけに対し、目の前に座る女・雪野百香里(声=花澤香菜)は否定し、万葉集の短歌 「雷神(なるかみ)の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」 を言い残して去っていく。

タカオには母親と兄がいるが、父親は既にいない。主人公は『彼女と彼女の猫 -Everything Flows』や前作『星を追う子ども』同様に、父親の不在を抱えている。母親が新しい父親を見つける様子は『彼女と彼女の猫 -Everything Flows』に近い。タカオの仲の良い兄貴である秋月翔太(声=前田剛)も母親同様に寺本梨花(声=寺崎裕香)という彼女を見つけ、この部屋を出て行く。主人公はいままさに巣立ちと成長の時期を迎えている。高校一年生で既に将来の夢を靴職人に決めているタカオは、学校のクラスメイト達にはその夢を内緒にしているが、ユキノにだけは正直に胸の内を吐露出来ている。最初は距離があった赤の他人の2人だったが、少しずつ打ちとけ合い、男女の境界を取っ払って友情が育まれる様子は『雲のむこう、約束の場所』や『秒速5センチメートル』にも近い。やがてタカオの将来の夢を興味深そうに聞くユキノの方も、出社拒否という問題を抱えていることが明らかにされる。同じ職場での年上男性との恋、ベランダでタバコを吸いながらユキノの話を聞く伊藤先生(声=星野貴紀)の後ろには、幸せな家族の姿がぼんやりと見える。新海誠にとって初めての大人の恋の描写は実に新鮮で生々しい。雨の日の湿気を帯びた艶めきの官能性、大人の女性を見つめる高校生という新たなキミとボクの構図が一際鮮明に映る。

女性用の靴を作ってみたいという欲望を発端にして、タカオがユキノの足型を採寸する場面の官能性は、これまでの新海ファンをあまりにも大胆に挑発する。梅雨を媒介にした6月~8月の湿気の多い季節、そうでなくても高温多湿な新宿の空の下で、雨の日にだけ会う機会を得る男女の光景。少年の大志となる靴職人という夢が、ユキノの上手く歩くことが出来ない感情に呼応し、新米教師の心の葛藤を静かに引き起こす展開の妙。蒼く純粋なタカオの心は、大人のしがらみに覆い尽くされたユキノの心をゆっくりと氷解させていく。『秒速5センチメートル』や『星を追う子ども』のような極端なキス・シーンは見られないが、そのことがかえってタカオとユキノのプラトニックな大人の友情を想起させる。手も握れず、唇にも触れることの出来ないタカオのひ弱さは現代の若者そのものだが、夏のある日の叩きつけるような雨が2人の心のズレを否応なしに盛り上げる。ストレスで味覚障害に陥り、いつの間にか上手く歩けなくなった女が、マンションの階段をおぼろげに降りていく際の艶やかだが確かな足取り。ここでは雨の新宿の空を呆然と見つめるタカオの言葉が再びユキノの心を震わせる。

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