【第264回】『GONIN サーガ』(石井隆/2015)

『GONIN』は暴力の濁流に飲み込まれていく男たちの異様な感情を、現金強奪と殺しというストレートなアクションで表現した伝説の1本である。この90年代の暴力の素地を作ったのは、北野武の処女作『その男、凶暴につき』だと思って間違いないだろう。その後、武は『ソナチネ』を撮り、もはや暴力描写であれ以上の映画は作れないとまで言わしめた。だがその暴力描写を、北野武とはまったく違うベクトルで完璧に撮った映画が今作だった。石井は自分なら武をこう使うと言わんばかりに俳優ビートたけしを贅沢に起用する。今作のラスボスは永島敏行であり、彼の背後にいる室田日出男なのだが、彼らが雇ったヒットマンであるビートたけしと木村一八が彼ら5人全員を殺めてしまう。今作においてビートたけしの表情は、無表情か不敵な笑みを浮かべるかの2つしかない。それ以外の感情は一切捨て去ったかのように、今作におけるたけしの追い込み方は狂気の域に達していた。言ってみれば『ソナチネ』の浜辺でのロシアン・ルーレットの不敵な笑みが、映画全編を支配するのである。明らかに今作は松竹120年の歴史の中でも一番ダーティでササくれ立った作品である。

当時、石井はインタビューで『GONIN』シリーズの10部作だか10篇だかの構想は既に出来ていると語っていた。確か初代『GONIN』は95年の夏に封切られ、その翌年には約束通り『GONIN2』が封切られた。しかし私はこの『GONIN2』にさっぱり乗れなかったのである 笑。映画は冒頭から借金の取り立てと妻のレイプに始まり、前作以上に陰惨な場面が続く。緒形拳の挿話を5人の女たちと絡めながら進むのだが、当時この映画はロジャー・エイヴァリーの『キリング・ゾーイ』の翻訳の域を出ていなかった。喜多嶋舞のヌードばかりが一人歩きしたイメージがある。いま振り返ると、『GONIN』というのはそれ1本で成立していた映画だと思う。その後いつの間にか『GONIN』のシリーズ化はうやむやになった。

それから20年、もはや忘れかけた頃に新作の登場となった。今作はまるで『GONIN2』はなかったかのように、初代『GONIN』の19年後の物語を描写した作品である。19年前の事件から、被害者家族たちも年を取り、今は20代や30代になってそれぞれの世界で生きている。大越組若頭で久松の息子である勇人(東出昌大)は建設作業員として堅実に働いていた。大越組組長(永島敏行)の息子である大輔(桐谷健太)は五誠会の初代会長・式根の孫にあたる三代目組長・誠司(安藤政信)がの用心棒をしつつ、いつか組を再興させたいと願っていた。

冒頭、いきなり『GONIN』のクライマックスの雨の中の銃撃戦の場面が新たに編集を加えれらた映像で展開する。松竹は5分間だけという制約をつけて、石井に旧『GONIN』のマテリアルを使わせることを許可した。ビートたけしの執拗な追い込みから逃れた根津甚八と本木雅弘の2人が、夜の雨の中、組長の帰りを待っている。ちなきなおみの『紅い花』(大名曲)をBGMに、根津甚八はシャブを打ちながら、惨劇の瞬間を静かに待つ。何十回何百回と観たあの名場面が2015年に再びスクリーンに蘇るのである。

シリーズ物でありながら、当然今作を初めて観る若い人にも、しっかりと物語は伝わらなければならない。そのことは監督である石井隆も、製作側も十分織り込み済みのはずである。ただこのシリーズの発端になった物語の説明が、あまりにも監督の思い入れが強過ぎるため、うまく伝わってこない。具体的に言うと、当時の初代『GONIN』の109分の物語の中でこの場合抜き出したいのは、金庫襲撃に至る過程と5人の説明と敵役の大越組の説明だけだと思う。しかしながら監督の石井が抜き出したマテリアルというのは、言葉のない銃撃戦の場面のみであり、どういう理由でその銃撃戦が始まったのかの説明はほとんどない。それは確かに『GONIN』の名場面の抜粋ではあるけれども、一番説明に相応しい場面を抜き取ってはいないのである。

思うに今作を物語る上で、松竹が「5分だけならOK」という甘い決断をしたことが、逆に石井隆の能力を限定してしまった可能性がある。というのも映画は、過去にあったエピソードを語ることには不向きなメディアだからである。小説には回想シーンを回想シーンとして語るだけの方法論がたくさんあるのだが、映画にはない。映画の大前提として尊重されるべき物語は常に未来であり、過去ではないということが言えると思う。それに対し、今作の前半45分の展開は明らかに過去と現在の整合性を満たすことに必死になり過ぎていて、肝心のアクション・シーンへの移行の瞬間がいつまで経ってもやって来ない。大越組長の息子がいる。若頭の息子がいる。物語に必要な文字情報はそれだけでいい。だが今作で石井は必死に初代『GONIN』との因果関係を結びつけようとしている。その前のめりになる気持ちはわかるのだが、それが結果として成功しているとは言い難い。

あの惨劇から19年経った。人々の記憶も薄れる。それと共に被害者家族(遺族)の痛みも時として薄れていくのは仕方ない事実である。人間は悲しみや苦しみを忘れるからこそ、未来へ進んでいけるのである。だが今作の登場人物たちはまるで昨日の出来事のように『GONIN』の凄惨な銃撃戦を憂う。それはあまりにも強引な物語の都合ではないかと考える。19年経って、ようやく過去の出来事を忘れることが出来て、新しい人生へ向かうのなら話はわかる。だが当時中学生だった彼らが今も現在進行形で事態を憂いているとは考え難い。

特に鶴見辰吾扮する久松の奥さんだった井上晴美の行動には疑問の余地が残る。映画であろうが、そこで繰り広げられる物語に何らかの確証がなければ、観客は物語へと入っていけない。彼女はBARを経営しながら息子を東大に進学させるのだが、その確証となるべき生活感という名のリアリティがどこにもないのである。そもそも東出昌大は大雨の中での桐谷健太との再会の場面から、明らかに物語を踏み外しているように見えて仕方ない。東出昌大の演技はあくまで東出昌大の等身大であって、石井ワールドの登場人物にはなり切れていないのが残念である。例えば桐谷健太や柄本佑は間違ってもシリーズ全体を把握するために明らかに前作前々作を観ている。とはいえ映画というのは、勉強したからといって上手くなるものでもないのだが・・・。

主人公の復讐のきっかけとなる母親の死の場面は明らかに筋立てからすると強引に過ぎる。とってつけたような設定で人を殺してみても、観客はすぐに見抜いてしまう。あの東出昌大と桐谷健太の仲違いもほんの一瞬で片がついてしまう。そこに葛藤がなければ物語として成立しない。そんなことは脚本家出身である石井隆にはわかりきっているはずだが、今作においては脚本の本流を少しずつ踏み外してしまっている。大体において敵陣に踏み込む場面も、あんなに人気の多い場所で着替えていたら駄目だろう。せめて車中のように死角となる場所は欲しいが、3人にほとんど躊躇なく人目につくところで着替えさせてしまっている。こういう細部の1個1個の踏み外しが残念でならない。

かつての『GONIN』シリーズを決定付けていたのは、主人公らの思いに対して、そこに対抗する組織のどうしようもない強さがあった。それは『GONIN』のビートたけしであり、木村一八であろう。今作ではオリジナルで萩原昌平という名のリストラ社員に扮していた竹中直人が、一転して怪しいヒットマンである明神へと姿を変える。彼は静かに土屋アンナ扮する麻美を追い詰めるが、初代のビートたけしの殺し屋のように無敵ではない。

アクション映画においては、敵役は強敵であればあるほど良い。初代『GONIN』におけるビートたけしや木村一八の存在は怯えるべき巨大な殺人鬼であったが。今作における竹中直人や福島リラや安藤政信の描写は、それと比べると随分手ぬるい。というか逃げ出すべき隙を自分たち自身で作っているようにしか見えない 笑。『GONIN』であっさりと椎名桔平が殺されたように、『GONIN2』で大竹しのぶがあっさりと殺されたように、5人の誰かに死が降りかかるのを待っていたのだが、一向に5人が死ぬ気配はない。そこで三たび飯島大介が登場するのにはオールド・ファンとして歓喜したのだが・・・。

強奪後の車内の場面には苦笑いを禁じ得なかった。明神の登場の後、真に21世紀的な携帯電話が現代人のツールとして登場し、それを媒介にして明神が容姿者を特定していくわけだが、そこで一発の銃声を監督が無効にしたことで、一向に死なない殺人鬼とのクライマックスでの銃撃戦が幕をあけるのである。とはいえそのクライマックス前の主人公たちの行動はこれで良かったのかと思えてならない。氷頭を誘う場面は流石にスリリングな生の躍動があったが、その後の設定の段階では、あまり効果的だとは言い難い印象を持った。とはいえ石井隆には、この因果応報の結びをここに設定しなければならない理由があるのである。

クライマックスの場面は、『GONIN』シリーズにしてはあり得ない屋内のロケーションで、どうなることかとおもい来や、なるほどそう来たかという展開に興奮した。屋内でも例外的に大量の雨を降らせる方法は一つだけあったのである。敵の間隙を縫うのかと思いきや、安藤政信以下組員にも彼らの所在は知れ渡っているにも関わらず、強引に彼らの独演会が始まるのだが、もともとの結婚式の場面がとってつけたように演出されているのにはやや閉口した。アクションの発端となる場面に、しっかりとした集いの現場は設けられていないのものの、その後の銃撃戦はやはり見応えがある。これはリアリズムというよりは明らかに石井隆流の様式美を備えている。だからこそのテリー伊藤の無謀備な来場であり、スクリーンを切って出て来た時の無防備な反応であろう。組長に備わっているはずの危機感がどこにも見当たらない強引な展開には苦笑いすら覚えた。

しかしながらラスト・シーンの度肝を抜く展開には、初代『GONIN』に魅了された私もカタルシスを感じずにはいられなかった。桐谷健太、土屋アンナ共に絶対絶命の中、救世主は彼らの眼前に突然現れるのである。あまりにも出来過ぎた展開ではあるが、それこそが映画の力であり、映画の奇跡だと言えはしないだろうか?その瞬間、難病に侵され、10年間寝たきりの生活を続けていた根津甚八の身体にはアクションへの憧憬が漲っていた。往年の根津甚八のキャリアには遠く及ばないものの、明らかにそこには俳優生命をかけた根津甚八の果敢な姿があった。その身体表現に、溢れる涙を抑えることが出来なかった。

計らずも今作は、昭和世代と平成世代の男優との絶望的な格差を浮き彫りにする。それは女優は大豊作な日本映画界において、圧倒的に男優はコマが足りないということである。石井隆の『GONIN』シリーズへの過度な思い入れは、過剰なまま今作にも反映している。正直、初代『GONIN』シリーズへの思い入れがなければ、今作を正当に評価することは難しい。ましてや根津甚八の全盛期を知らなければ、氷頭要の思いの芯を推し量るのは難しいだろう。またそのことに対する冷静な判断が、石井隆自身に出来ているとも到底言い切れない。

しかしながらその冷静さを欠く判断が、クライマックスの20分間には確かに映画的快楽を宿しているのである。この図らずも生まれた映画的矛盾に我々は真正面から向き合いたい。はっきり言って映画本編は実に穴だらけで凡庸である。だが根津甚八の数少ない出演場面こそが今作の緊張感を貫いている。1と2に比べて、明らかに低予算なオープニングにガッカリしたが、最期の最期まで見逃せない作品に仕上がっている。

出演者の母親の涙ぐましいツイートでも少し触れられていたが、今作は2015年の日本映画界において、全国公開作品としては歴史的不入りとなってしまった。全国124スクリーンでの公開にも関わらず、初日2日目の興業収入は約1400万たらずで、最終的には1億円にも届かない大赤字となった。このことの意味を今一度しっかり考えたい。

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