見出し画像

あ、限界だったんだ。
頬を伝う生ぬるい液体が私にそう伝える。
 
小学4年生春。同じ日本人に囲まれ何不自由なくコミュニケーションができていた生活は、父の仕事の都合によって突如見た目も考え方も言語も全てが違う人々に囲まれる生活へと一変した。

渡米した当初、文章として話せる英語は「ハロー。マイ ネイム イズ ジュナ・ウエダ。ナイスミーチュー」と「アイム ファイン サンキュー。アンド ユー?」くらいだった。

当初両親の心配事は全て姉たちだった。極度の人見知りである長女と次女が学校に馴染む為にはどうすればいいか。母に似てコミュニケーション能力が高い私は少し放っておいても大丈夫だろう。

小学高学年になり少し大人になった私は、両親がそう考えているのだと理解していた。だからこそ、私がクラスで孤立しているだなんて言い出せなかった。

英語を話せない児童が在籍した事がなかったブルバルディクリーク小学校は、まともにコミュニケーションが取れない私をどう扱えばいいのかわからなかった。

iPadを提供され、そこに入っているGoogle翻訳を使ってね、とだけ言われ授業は現地の子と全て一緒に受けた。宿題も全く同じ量を課せられ、できていないと怒られた。クラスメイトはそんな私を見て「この子はダメな子なんだ」と思ったのか先生の真似をするかのように私をからかい、時に叱責するようになった。

最初は皆が何を言っているのかわからなかった。だからこんな私にも笑顔で話しかけてくれるなんてすごい優しいクラスメイトだと喜んでいた。両親を安心させる為にも皆優しく、学校が楽しいと積極的に話していた。

現実を知ったのは、耳が英語に慣れてきた2,3か月後あたり。話せはしないが、周りの言っていることが理解できるようになってきた時。笑いながら話しかけてくれるクラスメイトから発せられる言葉は、その表情からは想像できないものだった。

それに対して何も知らない私はいつも感謝していたのだ。話しかけてくれてありがとう、優しいクラスメイトがいて良かった、私も早く話せるように頑張るね、という思いを込めて。彼女たちの目に私はどのように映っていたのだろうか。バカにしているにも関わらずそれに対して笑顔で感謝してくる馬鹿なアジア人。さぞ滑稽に映った事だろう。

それから数か月後が経った。一向に眠れず、お水でも飲みに行こうとリビングに行くと、両親が姉たちのことを話していた。

「△△(長女)が最近楽しそうに学校の話をしてくれる。今度友達の家に遊びに行くって」「〇〇(次女)も吹奏楽の同じパートの子たちと今度ショッピングモールに行くって」「3人とも学校に慣れてきたみたい」

両親が心配していた長女と次女は既に学校に馴染んでいた。その一方で両親が心配していなかった私は未だにスタートラインよりも後ろでうずくまっている。

だが、両親はそれに気づけない。樹奈は大丈夫。そのフィルターが邪魔をして「私」が見えていなかったのだ。

翌日。いつものように笑顔で家を出ようとした。スクールバスの音がした。扉を開ける手が動かなくなった。母が不思議そうに私を見つめているのがわかった。

「乗り遅れちゃうよ」

いつまでも扉を開けない私にそう声をかける母。わかっている。早く行かなきゃ。そう思うのに身体が言うことを聞かない。

母が心配そうに「体調悪いの?」と訊ねてきた。
そんな事はない。身体は軽いのにまるで金縛りにでもあったかのように動かない。何かを察した母が私を優しく抱きしめた。

久しぶりのぬくもりに無意識のうちに限界の証が流れ出た。
ようやく母の目に「私」が映ったのだ。
                  text/樹奈

-----------------------------------------------
こもれび文庫では皆さんからの投稿もお待ちしております。掲載する際にはこちらからご連絡いたします。
*投稿先
こもリズム研究会
メール comolism@gmail.com    
購入はこちらから
https://forms.gle/kZb5jX4MrnytiMev5

                             

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?