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いのち

 退屈な夜には、いつも漂うような時がある。人生について、未来について、いのちの意味について。思いは風の中に揺れたタンポポの種のように、やせた土地でなよなよしていた。

 二十二歳まで、生活がこんなに難しくなるとは一度も考えなかった。腹いっぱい食べられなかったり暖かく着られなかったりするというような難しさではなく、現実に囚われた無力感である。
 最近ずっと未来のことで悩んで、大学3年生になった途端に分岐点に踏み出したようであった。海外の大学院に留学するのか、それとも帰国して仕事をはじめるのか? 家族と友人に相談してみると、「まず君自身が何をしたいのかをはっきりする必要がある」といつも似たようなフィードバックを受けた。

 自分の未来をすっきりと想像したのが確か中学2年生の時だったか、覚えている。記者になって、正義を守り、真実のことを伝えたいと思った。でも、成長の過程では次々と投げられた妨害選択肢が、前進する道をぼやかしてしまった。
 私のジャーナリズムの理想が、そのコロナが流行った冬で死んでしまい、無数の世論環境に無力になった瞬間に死んだ。

 今の私は一体何をしたいのか? 
 どうすればみんなの思っていた意義のある人生を送れるのか?
 少なくとも私はある立派で高給の仕事を持たなければならないと思うが、今の自分はただ大学の学位しか持っていない。人材が集まって学歴至上とも言える中国社会では、明らかに十分ではないのであろう。

 果てしない情緒が押しつぶすようになったので、私は外へと出てみた。新宿に来て、それらの冷たいオフィスビルが人々の昼間を飲み込み、狭い地下鉄の通路は日々に多くの疲れた魂を押し込んでいる。私はつい、一つ一つ疲れた魂の下で騒々しい心が隠されていて、変化していきたいと叫んでいるのかと考えてきた。

 誰もが道を急いでいるが、私は止まって動かずに、いのちの中で走馬灯のような断片を思い出した。荒れ狂ったりするか、静かであったりするが、全部なにかの痕跡をつかむことができる。これらの痕跡は、私という存在を証明しているようであった。

 二千年あまり前にセネカはかつて、「What need is there to weep over parts of life? The whole of it calls for tears.」と言ったことがある。そうだ、誰でも泣いてこの世界に来るのである。そして私たちのいのちが終わる際に、また他人の涙の中で別れを告げることになる。生まれは痛み、死亡は痛みである。この両端の中間にあるのが、まさに果てしない長い川である。

 ふといのちの意味をわかったようである。それは、存在していて、前進して、努力するということである。

 いのちが続いて、私はまた自分の櫂を漕いで無尽の長い川で再出発していた。   

                      text/Coco

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