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地方紙記者だった私がスルーしてきたこと 「宗教右派とフェミニズム」を読んで

 20年ほど地方紙で記者をし、その間に取材したこと、目にした事象のひとつひとつの背景に、私は目を凝らしていただろうか。発表されたもの、見聞きしたことの表層を書いていたのではないか。
 「宗教右派とフェミニズム」(山口智美/斉藤正美 著)を読み進めながら、何度も自問した。 

本書は、ネット発の独立型報道番組「ポリタスTV」で2022年に公開された「宗教右派と自民党の関係――ジェンダーと宗教」(前篇・後篇)をもとに書き下ろしている。1990年代に始まったバックラッシュ(フェミニズムへの反対運動)、安倍政権以後の家族や女性、LGBTQ+をめぐる政策と右派・宗教との関係を、フェミニズムの視点から解き明かし、問題提起している。

「宗教右派とフェミニズム」

 本書が取り上げるさまざまな事象を、自分自身の取材経験に当てはめてみる。

  秋田県内自治体の「男女共同参画課・室」が、いつの間にか「女性活躍推進課・室」に塗り替わっていたとき、私は違和感を持っただろうか。非正規雇用の女性が抱える困難や性差別を見えなくさせる「女性活躍」に疑問を持っただろうか。
 
 秋田県が官製婚活に乗り出したとき、違和感を持っただろうか。
 
 秋田県が家庭教育支援に乗り出したとき、違和感を持っただろうか。

秋田県が2015年に作成した家庭教育支援のガイドブック

 この政策が、困難を抱える親をかえって追い込みかねない、「あるべき親」「あるべき家庭」の姿を押し付けることになりかねないという問題意識を、持っていただろうか。
 
 ほとんど「いいえ」だった。
 はっきり答えることすらできない。ジェンダー、フェミニズムに関心があると言いながら、モヤモヤしながら、見過ごしてきたからだ。
 
 伝統的な家族観を守り、歴史修正を進めたい「宗教右派」や関連団体、右派知識人たちは、膨大な力を使って、時に連携しながら世界的な「戦い」を展開し、自らの思想と正当性を広めようとしてきたことを本書で知った。「今」につながる伏線が、もう何十年も前から着々と張り巡らされてきた。それを本書は詳細な記録と分析で浮かび上がらせている。

 これまで自分が一人の女性として苦しんできた構造、これからも向き合い続ける構造の分厚さを知った。予算をかけ、条例をつくり、正当なこととして末端まで浸透させる力が、権力と結びついた側にはあるのだ。

地方でひっそりと起きていること


  本書が提示する課題のなかで、自分がわずかに取り組めたのは、近年激化しているトランスジェンダーの人たちへの差別についてだ。

 なかでも埼玉県についてのデマは、国会でLGBT理解増進法が議論されていた4月下旬から5月にかけてSNS上で急速に広がり、トランスジェンダー当事者への誹謗中傷につながった。「埼玉県内の介護施設がジェンダーレストイレ、ジェンダーレス更衣室になった」「(更衣室などがジェンダーレスになったことで)職員が辞めた」というデマで、5月に埼玉県知事も2度全否定しているのだが、これを秋田県にかほ市の高橋利枝議員が6月、一般質問で「事実として」取り上げた。
 
 同じ6月、大館市議会では、田中耕太郎議員が一般質問で次のような発言をしていた。

〈大人である我々でもいろんな混乱を招くような問題点を抱えたまま、LGBT法案成立によって学校教育現場に落とし込んでいくのは少々乱暴が過ぎるのではないのかと私は思います。男、女、男の子らしく、女の子らしくなど、このような言葉、文字が辞書から消えるのではと思ったりもいたします。(略)幾ら多様性だ、自由だと言いつつも、度が過ぎるようなものを教育現場に持ち込んでほしくありません。(略)パンドラの箱を開けるようなことは、少なくとも大館ではぜひおやめいただいきたい。(略)教育現場で変な予備知識を与え、子供たちが右往左往することだけはないようお願い申し上げ、このLGBT法案に関する質問は終わります〉
 
 多様性や人権保障と逆行する「種」は、地方でひっそりと撒かれている。 
 

マジョリティの空気を読んでいた


 本書でも紹介されている「エトセトラvol4」(2020年秋刊行)を最近、取り寄せて読んだ。女性運動とバックラッシュを特集している号だ。

「エトセトラvol4」(2020年秋刊行)

 その中で、飯野由里子さんが「フェミニズム運動がバックラッシュ派に対抗するなかで、性別二元論を再生産し、性的マイノリティに対するフォビアを強化した可能性」について論じている(発表は2017年)。この論考で挙げられていた懸念の一つが、性的マイノリティの運動が「メインストリーム化」を志向することによって、特定の人たちに対するフォビアや差別に加担してしまうーー というものだ。

 国や政治家と対立するだけでなくうまく利用していく、というメインストリーム化の戦略は「マジョリティにとって受け入れ可能な範囲を超えた、マイノリティの主張や自己表象を実質的に禁止し、運動と政治の可能性を大きく制限しかねない」と飯野さんは書く。2017年の発表から6年たった今、それは現実に起きているように思う。そしてその動きは、地方でより顕著に表れているようにも思う。
 
 違和感をスルーしてきた自分の姿と、飯野さんの言葉が重なった。
 私自身のなかに、マジョリティの「空気」を読み、ジェンダーに関する話題を避けようとする意識があった。ジェンダーにまつわる記事を書くたびに否定的な反応を受けた。「気にし過ぎだ」「そんなことを言われたら何もできなくなる」。そういう反応を、私はいつの間にか自分の中に取り込んで「行き過ぎないように」と注意を払い、「受け入れ可能な範囲」ばかり探っていた。

地方の小さな動きを積み上げていく

 
 「宗教右派とフェミニズム」の解説で津田大介さんが書いているように、ジェンダーを巡る右派的な政策の「点」としての報道は、これまでも無数にあった。それがなぜ「線」や「面」にならなかったのか。津田さんは「斉藤・山口両氏が長年こだわってきた『ジェンダーの視点からあらゆる出来事を捉える』という意識がメディアに欠けていたからではないか」と書いている。

 解説によると、朝日新聞オピニオン(2022年9月27日)のなかで、山口さんは地方の小さな動きも報じ積み上げていくことの重要性に触れている。

 
 私が秋田から発信することは「点」にすぎないが、これからは小さな動きを臆せず記録し発信していきたい。その点を、別の地域の誰かが発した「点」とつなげて、一筋でもいいから線にしていきたいとも思う。
 
 会社を辞めてようやく本を読めるようになったこの数カ月。心を揺さぶられた本は新刊ばかりではなかった。フェミニズムにまつわる数年前の本や、100年前に生きた女性の言葉に道を照らされた。
 
 「宗教右派とフェミニズム」は、さまざまなことをスルーしてきた自分を忘れないための本になった。一番目につく場所に置き続けている。
               (三浦美和子)
 
 

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