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差別と向き合ったら新しい景色が見えるよ 日常生活の中で、ママ友や子どもに部落を伝える実践 上川多実さんインタビュー

両親は関西の被差別部落の出身。でも、自分は「部落差別なんてない」と思われがちな東京の、被差別部落の外で生まれ育った。
そんな経歴を持つ上川多実さんが、初めての著書「<寝た子>なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常」(里山社)を出版した。子どものころから「部落差別」を周囲にどう伝えるかを考え、運動の言葉から日常の言葉への「翻訳」を重ねてきたという上川さん。その体験の蓄積や差別と向き合う<豊かさ>について話を聞いた。

上川多実(かみかわ・たみ)さん 1980年東京都生まれ。関西の被差別部落出身の両親のもと、東京の部落ではない地域で育ち、同和教育を受けることもなく、周囲に「部落」という言葉も通じない環境の中で、自分なりの方法で部落問題について向き合うようになる。映画美学校でドキュメンタリー映画製作を学び、2000年、部落問題についての両親と自らの葛藤をテーマにしたドキュメンタリー映画「ふつうの家」を発表。「わたし」から始まる「部落」の情報発信サイト「BURAKU HERITAGE」の運営メンバー。2児のシングルマザー。

「部落差別はもうありません」?

本書は「『部落解放運動』の家に生まれて」「<部落>を子どもにどう伝える?」の2部構成。
前半では、多実さんが東京で保育園、小学校、中学校、高校と育つ過程で、周囲に部落差別について知っている人がほとんどいない状況で、「差別」と向き合ってきた状況が描かれる。
父は部落解放同盟足立支部の職員。保育園では将来の夢について「しぶで働きたい」と言ったところ、保育士は「しぶって何?」。
小学校の卒業式の練習では、君が代を歌わないことを前に出てひとり表明しなければならなかった。
中学校では「部落問題って知ってる?」と聞くと、「ブラック?黒人差別みたいなやつ?」という珍回答が帰ってきた。
高校の人権の授業では、教科書を読みながら男性教師が「部落差別に関しては未だに解消されていないとは書いてあるけど、もう今時こんなのないです」と言った。教室でトランプの大貧民をしていたクラスメイトが、負けた子に「はーい、お前ら穢多・非人」と言っているのが聞こえてきた。多実さんは悩んだ末、担任に相談し、クラスメイトにあてて手紙を書いた。
こうして、部落差別について周囲に説明をしてきた体験を、多実さんは「翻訳」と呼ぶ。

上川多実さんの著書「<寝た子>なんているの? 見えづらい部落差別と私の日常」(里山社)

——本書では「わかりにくい」、「見えづらい」差別について書かれています。東京のご出身で、「部落差別」について知っている人が周囲にいない。自身は結婚差別や就職差別を受けた経験はないが、身の回りには実際に差別を受けた人がいて、自分も将来差別を受けるかもしれないという恐れを抱えながら生きている。にもかかわらず、部落差別について学校の授業では教わらず、それは「昔のこと」「西日本の問題」ということになっている。多実さんにとって「わかりにくい差別」「見えづらい差別」とはどんなものですか?

多実さん)私にとってというより、色々な差別に共通する社会の流れとして、今、露骨にわかりやすい差別とともに、一見差別だとわからないものが横行してきている。わかりにくい差別は、もともとあったのでしょうが、そこに人々の意識がいくようになった。「マイクロアグレッション」(見えないぐらい細かい形で日常生活に紛れ込んでいる差別や偏見)という概念は、アメリカで制度的な人種差別を撤廃していっても、それでもマイノリティの人の苦しさが変わらないところから出てきた。昔からそういう「わかりにくい差別」はあったんだけど、それが「差別」だという概念自体が現れてきたのは最近なのかなと。でも、それは私がずっと経験してきたことなんですね。

マイノリティの中のマイノリティ

——上の子を産んでしばらくして、大阪の北芝という被差別部落を訪ねた体験が大きな転換点として描かれています。多実さんがつくった映画を上映した後、父親世代の男の人から言われた言葉が印象的でした。「部落の出身者たちを取り巻く環境は多様化していて、上川さんみたいに親が部落から出て部落の外で生まれ育つ人もこれからどんどん出てくる。その多様化の最先端で闘いながら生きてきた上川さんに会って、話を聞いてみたいって思ってたんです」。どんな気持ちでその言葉を受け止められたのですか?

多実さん)東京でずっと暮らしていて、子どものころはわからなかったんだけど、部落解放運動に関わったり社会の状況がわかるようになったりしてきて、東京っていうのは部落差別がみえづらい地域なんだなと思うようになりました。運動や行政の取り組みが弱い、遅れている地域と運動の内部で見られていることがわかってきた。部落解放運動が熱心なのは、関西や九州など西日本の方なんだなと知って、劣等感というか、自分は不利な状況にいるんだ、部落の運動の中でもマイノリティの立場なんだと思っていたんです。
北芝は被差別部落であることをオープンにして、コミュニティカフェやデイサービス、朝市などを運営していて、めちゃくちゃ新しい取り組みが進んでいた。それに比べて自分がいた環境って、と思っていたんですね。
自分が北芝に暮らしていたらどんな子になっていたんだろうとか、いまここで暮らしていたらどんな子育てができたんだろう、悩みの種類が違ったんだろうなと思いながら過ごしていた。
その中で、私の映画の上映会があって、運動に対して批判的なことを映画の中で言ったりしていたので、北芝の人にどう受け取られるんだろうと心配していたところに、地元の結構年長者の方に「いや、上川さんが最先端だと思う」と言われたんですよね。
それまで私はずっとロールモデルが欲しかったんです。同じような環境で暮らしているちょっと年上の人とか、部落差別について意見が聞ける子育ての先輩とかを欲していたんだけど、「あなたが最先端だよ」といわれた時に、「ロールモデルなんていないのは当たり前じゃん」と腑に落ちた。自分は誰も開拓していないところを開拓している途中なんだ。自分でぶつかりながらやっていくしかないんだな、と納得した。
北芝みたいに私からみたら「最先端」と思うところの人が、逆にこっちを「最先端」と言ってくれたことからくる自信みたいな気持ちと、立場が違っても尊重し合って一緒に立っていられるんだという喜びみたいなものがありました。それで大きな出来事だったんです。

——開拓者として覚悟を試されるような気持ちはなかったですか?

多実さん)あんまり。むしろ、今までやってきたことと同じことをやっていくしかない。子どものころからやってきたことをやっていくしかないという覚悟ができた。ずっとやってきた「翻訳」をこれからも継続してやっていくというのが、自分で納得できるやり方なんだろうなと腑に落ちました。

「人間ドラマ」として消費される差別問題

——北芝で上映された映画は学生時代に撮られた「ふつうの家」のことですね。最初の上映時に「政治性の脱色」を経験したと本にありました。それはどんなことでしたか?

多実さん)映画の内容は、家庭内での部落問題の取り扱い方、家族それぞれの向き合い方を巡って、私と主に父親が衝突したり、やりとりしたりするものでした。思いっきり部落問題の映画を作ったつもりで、完成させて、上映活動をしていたんだけど、観客から出てくる感想は、部落問題という要素をそこから丸ごと抜いて、親子の生き方の違いによるぶつかりあいの話として評価するものがほとんどでした。
本当にそれに戸惑った。そのときまだ20歳だったので、こんなに部落部落って映画の中で何百回でてくるかわからないし、私は部落問題についての話だと思ってるのに、なんで「いいお父さんじゃん」「親子げんか」「子どもが親を乗り越える話」みたいに評価されるのか、本当にわからなかったんです。
すごく混乱して映画から離れることになった。10数年経ったときに、「それは政治性の脱色っていう問題で、政治性を含んだテーマで作品を作った時に、それが何なのか分からない人は、まるっと脱色してみるんだよ」と教わって、「私の映画ではまさにそれが起きていたんだ。はー、なるほどー」となりました。
人種差別とか女性差別を扱っても、見る人によっては、単に人間の成長ストーリーとか、壁を打ち破っていくストーリーとして消費されてしまう。人間賛歌や壁を乗り越える勇気を称える映画と見る人もいる。政治性の脱色は他の作品でも起こっていますよね。

——そこに差別があるとわからないと陥りがちな罠……。

多実さん)そうですね。差別されるってどういうことなのか、それが社会の中で何を意味するのかを考えたことがないとそうなるのかな。少しでも差別について考えたことがあったり、気が付けるフックがついている人だったりしたら、引っかかってくれるんだろうけど、フックの付いていない人もいっぱいいるんだろうなと思いました。日本では人権について学校できちんと教わらないことが多いので。

上川多実さん(本人提供)

マイノリティであり、マジョリティでもある自分

——大学で被差別当事者として講演した後、ゲイの男性から声をかけられて、「黙ってたらわからない」「普段見えない存在になっているから声を上げなければその問題を見てもらえない」「どうカミングアウトするか悩む」などの共通項が「わかる」と言われて、LGBTQの当事者との交流が始まった、と書かれています。見えづらい差別、分かりづらい差別を生きてきたからこそ、同性愛の当事者と出会った時に「ここでは異性愛の自分の方がマジョリティなんだ」と受け止めることができた。自分がマジョリティであることを否定する人もいる中で、多実さんはスッと受け止めているように読めました。自分がマジョリティであることの居心地の悪さとどうやって折り合いをつけていったんですか?

多実さん)自分が踏まれることの痛みを経験しているからかもしれないんですけど、マジョリティだと自覚して状況を変えていくことで、人を踏まずにすむようになるんだと思ったら、「それはすごくいいことじゃん」と思った。差別を内包した社会の仕組みに気づけて、自分にいっぱいできることがあるなんて。足を踏んでいる、足を踏んできた申し訳なさとともに、これからは自分の方がマジョリティとして社会を変えていくことがいっぱいできるんだと思ったら、「いいじゃん!」と。それで抵抗があまりなく受け入れられたんだと思います。
マジョリティ特権に詳しい上智大学の出口真紀子教授もよく言っていますが、マジョリティ側は数も多いし、権力も持っているんだから、マジョリティ側が動く方が世の中が変わるスピードが速い。そして、マイノリティの当事者が何かを訴えるより、マジョリティが動く方が、心理的な負荷が低い。マイノリティ当事者よりも傷つかずに動けることが多いんですね。マジョリティが動く方がいいとわかると、やれることがいっぱいあるじゃんと思います。

「バーバパパのがっこう」

「バーバパパのがっこうへ行きたい」

——子育てをしていく中での気づきについても書かれています。中でもまだお腹の中にいるときから子どもの性別を聞かれる体験についての考察が印象的でした。

多実さん)そう!私は性別にとらわれずに子育てをしたいと思って、できるだけそうしているんですけど、妊娠中から「男の子なの?女の子なの?」ってすごくきかれました。あいさつみたいに言われました。たぶん本当にあいさつなんだと思います。妊娠した女の人を見たら、リアクションとして、「男?女?どっちなの?」「どっちがほしいの?」と聞くことがあいさつのように浸透している。ほかに聞くべきことがないからでしょうかね。「予定日いつ?」とか「体調はどう?」とかそういうバリエーションがあまりないから、聞きやすい定型文の一つとして「どっちなの?」「どっちがほしいの?」と言うとそこから話が弾んでいく。そういう文化があるんですよね。それをいやというほど経験しました。

——フリースクールにお子さんを通わせています。子どもがこの幼稚園、この学校に通いたいと思っているかなという見極めに時間をかけたのですね?

多実さん)幼稚園選びでは、私自身が制服に抵抗があって、制服がない幼稚園の中から相性がよさそうなところにと思ったんですけど、なかなかなくて。「惜しい」感じのところはあったんですけど、私服の上にブレザーはおるだけとか。私服で家から一番近いところに見学に行ったんだけど、子どもが「ここは嫌だ」と言って、2つ目に近い幼稚園がお世話になったところです。
本の中では書いていないのですが、私、保育の勉強をしていた時期があって、映画から離れた後、保育園でアルバイトもしていました。通信制の短大に入って保育の勉強をしていた時に、子どもの人権を学んだんですよ。「家族援助論」という授業のときに、教授が保育実習に巡回視察に行った時の光景について、問いかけたんです。
ご飯をあげている時に、子どもの口の周りを無言で拭く保育実習生がいるんだよね。もしそれが自分のすごく大事な人や親だったら、「拭くよ」っていうよね。だけど、子どもには「拭くよ」って言わないで無言で拭いていいと思っている人がいるけど、なんで?って。
それって子どもを自分と同じ人間として尊重できていないから、そういうことするんじゃないの?と。
しつけと称して殴っていいいかという問いに広がっていく話だったんです。
それを聞いた時に、アルバイト先で、まさに子どもの口を無言で拭いていた私はハッとしました。「子どもも生まれた時から人格と尊厳がある人間なんだよ」ということの意味がわかって、そこから態度を改めたんです。
その後に子どもを産んで育てたので、「幼稚園どこに入る?」とか「あなたはどうしたい?」とか、子どもの気持ちみたいなものをできる限り聞こうとしました。生まれたからにはひとりの人間として、できる限り尊重したいなという気持ちがあったんです。
周りや近所は幼稚園や学校は親が決めて子どもを入れるという感じだったけど、私は一応、子どもの反応や、どうしたいかを聞かないとな、という気持ちはありました。
小学校入学時も、子どもが「バーバパパのがっこう」という絵本を読んで、「バーバパパのがっこうみたいなところに行きたい」と言い始めました。バーバパパが作った子どもたち自身が好きなことをしながら学べる学校です。その後、公立小学校の学校公開の時に、「机の列がそろっていない」「帽子が机の上に出ている」などと怒鳴っている先生を見て、上の子が「それが怒られないといけないことなのかわからない。わからないのに、怒られるのはいや。バーバパパのがっこうにする」と言ったことで、本格的にフリースクールを探すことにしました。

どうしたら「外の人」に伝わるのか

——ママ友に部落問題を伝えるエピソードが出てきます。日常の中で、平熱の言葉で、普段の会話の中で伝える方が伝わると多実さんが考えているのはなぜですか? その難しさはどんなところにあって、どんな工夫をしていますか?

多実さん)高校生の時に部落解放運動に触れ、自分たちがやっていることが(部落問題の)外側の人にどう伝わるか、みたいなことをすごく考えていたんですね。スローガンとして掲げられる言葉、運動の中で使われている言葉は、あくまでも中の人たちを奮起させる言葉というか、中の人たちが燃え上がるための言葉だなと。それはそのまま外に出しても、伝わらないということをすごく感じました。それはやっぱり私が、子どものころから言葉が通じない人生を、翻訳しないと伝わらないということを、ずっと経験してきていたので。
その時に、どうやって自分の尊厳を失わないように翻訳するかが私は結構大事だと思っていて。嘘を言って、マジョリティ側に迎合して伝えるのでもないし、マジョリティの人に分かっていただくというスタンスでもなくて。ただ、自分としては伝えたいことがある、伝えたい内容がある。それをその気持ちのまま翻訳すると伝わるという経験があった。逆に運動の内部の言葉では伝わらないという経験があまりにも多かった。「差別糾弾」といっても周りの人はわかんないじゃないですか。
なぜ差別がいけないのか、なぜ差別をなくさないといけないのか。
言葉とか表現って大事だなと思っていて、「翻訳」を重ねる中で、やっぱり日常の中で、自分たちが使っている言葉で語った方が、自分も納得するし、相手にも伝わるだろうなというのが身についてきた。
差別って生活の中で起きること、感じることがほとんど。自分が周りの子と全然変わらないように過ごしているのに、高校の授業で「もう部落差別はありません」と言われた時のように突然、事故みたいに降りかかってくる。自分だけがそれが見えて、自分だけが苦しいみたいなことが起きる。その大変さ、苦しさがマイノリティ側にはあると思う。
映像作品やドキュメンタリーになると、大変さ、苦しさみたいなものがあまり表現されず、スローガンの方が重視されてしまうことの方が多い。生活の中の部落問題じゃなくて、部落問題だけが抽出された作品。差別があっても、私は胸を張って生きています、みたいな。啓発ビデオになると、その人の中の葛藤や矛盾がそのまま出てこなくて、正しくて、教科書に載せられる主張だけが抽出される。正しい部落民のあり方、正しい差別との闘い方みたいにまとめられることに、私は違和感があった。
私が映画を作った時は、日常の中で、交通事故みたいに出会う差別の厄介さが描けないかなと思っていて、佐藤真監督が新潟水俣病について撮ったドキュメンタリー「阿賀に生きる」を見て、人々の日常の中に出てくる問題が描かれているところを、すごくいいなと思ったんですね。

「わたし」から始める「部落」の情報発信サイト「BURAKU HERITAGE」

モヤモヤをママ友と分かち合えることの意味

——「部落問題」をテーマにしたAbemaTV「Wの悲喜劇」に出演して、その後、ママ友と感想をやりとりしたり、部落問題について公園で話したりできるようになっていったと書かれています。一方で「被差別部落の中にある団地に住んでいる人って、ヤバい人多いじゃん」というド直球の差別を食らったり、「よくわからないし」と言われた時もある。そんなときはどうしていますか?

多実さん)講演や大学の講義で初めて会う人に「私は部落の出身です」と話して、何を思われても、明日からの私の生活には何も支障がない。でも、身近な人に当たり前に伝えていくというのは利害関係が大きいだけに、うまく行かないとダメージを受ける。ハイリスクハイリターンみたいな感じですよね。
その代わり、うまく伝わると明らかに自分の生活が変わる。本の中には部落について「知りたい」と言ってきてくれたクミちゃんというママ友が出てくるんですが、そうやってクミちゃんが理解してくれたら、次の日からクミちゃんに思ったことがそのまま話せるようになる。「昨日こういうことがあってすごく嫌だった」とか「さっき公園で遊んでいた時に見たことが差別的でいやだったんだよね」とか、自分の中でモヤモヤとひとりで抱えていたことを分かち合える人ができると、本当に生活の環境が変わるんですよね。実際にいい反応をしてくれるママ友がいて、それを積み重ねる中で、いい循環ができていく。嫌な反応が来るときもあるけど、分かってくれる人がいたら嬉しいから、いい反応をしてくれた人との人間関係や経験が支えてくれているという感じですかね。
ママ友から「団地に住んでる人って、ヤバいよね」と言われた経験も実際にあるんですけど、悪い人ばっかりじゃない。いい反応を返してくれる人が確実にいることもわかっている。全員が全員だめというわけじゃないというのが経験として自分の中にあるので、それが背中を押してくれているな、と思います。

お子さんが撮影した上川多実さん(本人提供)

子どもに「差別に負けるな」と言わない

——子どもに部落をどう伝えるかのポイントで、「差別に負けるな、と言わない」「家の外の価値観を『くだらない』と一刀両断しない。狭間で苦しむのは子どもたちだ」と書かれています。

多実さん)私自身が、「差別に負けるな」といわれて育ったのが嫌だったんですよ。なんで差別されるかもしれない上に、闘うことまで二重に背負わされなきゃいけないんだというのを、いつごろからか思うようになって。
でも、じゃあどういう伝え方があるのかというのは、わからなかった。
子どもを妊娠したときに、「今度は私の番だ」「私が子どもに<部落>を伝えるんだ」とまず頭に浮かんだ。どうしようって思ったけど、ロールモデルがいない。研究者に聞いてみても、「部落の外の一般地区で生まれ育ち、子どもを育てていく人が、子どもに<部落>をどう伝えるのかのロールモデルはいないね」と言われたので、どうしようと。

部落民であることの「プラス経験」を伝えたい

——子どもたちが部落のことを知っていると言い出したり、部落のことを伝えたりした時の2人それぞれの反応が面白かったです。

多実さん)いつ、どんな風に伝えたらいいのか、何年生で伝えるのがベストなのか。絵本とかがあったらそれを読んだらいいのか、とか形式的なことをものすごく考えていたんですよ、ずっと。
そしたら、上の子(芹)は小学1年生の時に突然、「芹、部落問題って知ってるよ」と。BURAKU HERITAGEの活動や、北芝に連れて行ったりはしていたので、部落というものがあることは知ってはいたんだろうけど、向こうから「知っている」と言い出したので、「今だ、流しちゃいけない」と思って、「さむらいが居たくらい昔、部落の人たちは身分が下とか外とされた」「部落の人に対する差別が未だにある」と、芹にもわかるであろう言葉で話をしたんですよね。
「部落っていうのは正確にいうとそういう人たちが住んでいる場所のこと。芹が自分のことを部落の人って思うかどうかは芹がこれから少しずつ考えていけばいいけど、芹はママの子どもだから芹のことを部落って思う人もいるかもしれない」って。
すでに北芝の子育て世代とつながっていたので、ネガティブなこと、たとえば「差別に負けるな」とか「将来、差別を受けるかもしれないよ」とかいうことだけじゃない、部落民であることのプラスの経験みたいなものを子どもには一緒に伝えたいなというのは心がけていました。北芝に遊びに行って楽しかったことだったり、セクシュアルマイノリティの友達がうちに遊びにきてくれたりという経験が本人の中に積み上がっていくことが、子どもたちの土台になっていくと思ったんです。
「正しいことをしなさい」とか、「差別に負けちゃいけない」とかそういう理屈みたいなことをもっともらしく言うんじゃなくて、私が差別と向き合って生きていることを体現できていることが大事なんだろうな、って思ったんですよね。マイノリティであることと向き合って、社会と向き合って、自分の尊厳を大事にして生きていくことが豊かなことなんだ。私が楽しそうに生きている。私がその経験を「豊か」だと思い、実際に豊かになっている。それを、子どもたちが一緒に経験として過ごす。言葉ではなく経験として私の姿を見てもらうことが、何歳の時に、どんな言葉で伝えるかよりも、雄弁に伝えてくれると思っていて、子どもたちもそれを受け取ってくれている感触はあります。
下の子(遊)も小学1年生の時、NHK Eテレの「バリバラ」で部落問題を特集したのを親子で見ていて、「遊も部落ルーツだよ」と伝えたら「部落ルーツですっ!」って椅子の上に立ち上がって踊り出すという予想外の反応でした。
子どもたちのお誕生日会に毎年、色んな人が来てくれる。マイノリティの大人たちがわーっと10人ぐらい集まってくれるんですね。トランスジェンダーだったり、ゲイだったり、部落だったり。子どもから「いつも誕生日に来てくれる人はもともとどういうつながりだったの?」と聞かれたことがあって、「部落の関係で多実が色々やっている中で出会ってきたお友達なんだよ」っていったら、「多実が部落の人じゃなかったら、私の誕生日会はさびしかったね。あんなに楽しいお誕生日会が開けてよかったね」と言ってくれた。結局、伝わることって言葉じゃないんだなと思いました。
好き勝手に生きている人が周りに多くて、規範を押しつけてくる人がいないので、それがいいのかな、とも思います。子どもにはできるだけ、「こうしなきゃ」と思わないで好きに生きていってほしいなと思いますね。

「自分とつながっている感じがする」

——この本にどんな反応、感想がありましたか?

多実さん)会ったことがない書店員さんから「友達の話を聞いているみたいな感じがする」「新しい友達がひとりできたみたい」と感想をもらいました。
上川さんじゃなくて多実さんと言いたくなるとか。日常の中に、自分の友達のような形で著者がいる。人間の話として受け止めてくれて、「自分とつながっている感じがする」と受け止めてもらえた。読んだことによって、その人の思いや経験が引き出されているみたいで、「読んだ後に誰かと話しがしたくなる」とも言ってもらえたのがうれしかったですね。

この「世界」は私たち次第で、もっと良くなる

——本の帯文を作家の温又柔さんが書いています。
多実さん)温さんが「この『世界』は私たち次第で、もっとよくなる」と書いてくださったのが、とてもうれしくて。
私は、一人がすることの力みたいなものをすごく感じています。
「私一人が動いたところで何もできない」とか、「何か大きなことをしないと社会にインパクトを与えられないんじゃないか」とか、そういうことではなくて、一人一人が身の回りのことであっても、感じて動くということが大事だと信じている。
自分もそういうことをしてきたと思っているし、あんまり社会に絶望していないタイプの人間です。
なんだかんだいっても、社会は確実にいい方に歩んできていると思っているし、いい方に変えられる力をみんな持っている。
そういうことを思いながら書いたので、温さんが希望の要素を受け取り、帯に書いてくださったのが嬉しかった。
私は人権や差別と向き合うことは豊かなことだと思っています。人権って誰にとっても大切なものなので、みんなに良く知って欲しいし、向き合ってほしいと思っている。
大学の授業などでは最後にメッセージを求められたら、「差別と向き合うのは大変なこと、つらいことじゃないかと一見思うかもしれないけど、一回、だまされたと思ってやってみなよ。向き合う前には見えない、すごくいい景色が見えるから、こっち側においでよ。楽しいよ」って言うんです。
本を書くときも、同じことを全体を貫いて言える形にしたいなと思っていました。いただいた感想から、読み手がちゃんと受け取ってくれているなと感じてうれしいなと思っています。
(聞き手:阿久沢悦子)

【上川多実さんの出版記念トークなどのお知らせ】
3月16日(土)13時〜 @東京・今野書店
作家の温又柔さんと対談(オンライン配信あり)
「<寝てた>ことなんてなかった、私たちの半生」

3月21日(木)18:30〜 @京都・誠光社
大阪公立大教授の阿久澤麻理子さんと対談
「<私とあなた>の日常の中にある<見えづらい差別>って何?〜」

3月23日(土)18:30〜 @大阪・black bird books
大阪大学大学院人間科学研究科特任講師の板東希さんと対談
「それぞれの<部落ルーツ>、子どもにどう伝える?」


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