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殴り書き(過去のやつ)

過去の殴り書きを置いておき、むやみな反芻を防ぎたい。(いかに症状に「とらわれ」てたか。)AIくんにお願いして、多少読みやすく整えてもらった。



疲れが蓄積すると、怒りが湧き上がることがあります。日常生活の多くの側面が高い難易度を持っているように感じられます。自分なりに対処できると思っていましたが、理解できないことが次々と現れると、心が折れそうになります。

この世界では、鬱状態が正直な反応のように思えます。昔からそう感じていました。夢を見ていなければ、健康でいられないように感じます。他人の会話の意味が理解できないのです。

指示の意味も一般的な方法で捉えられていないと感じます。自主学習型の就労支援体験で「今日は何に取り組んでいましたか」と尋ねられたとき、行った作業を率直に説明しても全く伝わらなかったことを思い出します。その不気味さに逃げ出したくなりました。私が知っている動詞が、まったく異なる意味で使われているのではないかと疑問に思います。

私が生きてきた世界とは一体何なのでしょうか。私が経験してきたこと、見てきたこと、目指してきたことの意味は何なのでしょうか。他者から見れば、意味のないものを追いかけていたと思われるのではないでしょうか。

日常に溢れる「わからなさ」を楽しむことがどれだけ可能か。日常的に続くそういった場面で、引きつった笑いになっていないか。

わからない部分を理解しようとする努力の困難さを軽視していないか。わからなさのメカニズムを理解したからといって、すぐに解決するわけではありません。

「書く」という行為は、私にとって文字通りの「書く」ことに過ぎません。「〜を作る」や「〜を示す」という実践へと、文脈を構築することができません。「考える」と言われても、文字通りの「考える」こと以上にはなりません。一般的な意味でしか動詞を捉えられません。このままで生きていけるのでしょうか。

「見通しを立てる」という行為も同様です。一般的には、特定の行動を組み合わせれば達成できるとされていますが、誰も教えてくれませんでした。成長と共に自然にできるようになる人が大多数の社会であれば、私は隅っこで生きていくしかありません。

鬱々とした顔で日常性の理解に苦しむのが、私の人生なのでしょうか。遭難から生還した命を使って向き合う、私の役割なのでしょうか。

自由な発想をする私を楽しんでいることが、私にとっての幸せだったはずです。文脈から離れた言葉で自由に考える時間が、生きる喜びだったはずです。それを考えると、正直、論理的な思考や議論が私に合っているとは思えません。

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