全然さっぱり良い親ではないから

Twitter経由でquerieの質問を頂くと、子育てや教育に関係する質問が多くて、慌てる。また、前回の記事の反響で「お子さんへ温かい関わりをされてますね」といった言葉も頂く。私は全然さっぱり良い親ではないので、「ああああこんな風にそれっぽいこと書いて調子乗ってるとそのうち成長した娘に耳が痛いこと言われたりして落ち込みそうだああああ」と思ってしまう。

私が落ち込むのは自業自得でも、それっぽいこと言っている親のことをどこかで娘が知れば、複雑な気持ちになるのではないか。これまで、やたらきつく叱ってしまったとか、感情的に対応してしまったとか、育児のやらかしは沢山している。外では立派なことを言っている親が、家の中では素晴らしい親ではないというのは、子どもにしてみたら納得がいかない状況だ。子どもは親に気を遣ってしまう生き物なので、「うちの親マジ最悪」と友達同士で話すこともしづらくなる。

前回の記事で、子どものサードプレイスを重視しているということを書いた。感想を寄せてくださった方の中にも、このサードプレイスの部分が心に残ったという方が何人かいた。でもこのサードプレイスの話、私が子育てに関して何か先進的な考えを持っているというより、娘にせめて用意できるものってこれかな…というあまり前向きではない気持ちから生まれている。「うちの親マジ最悪」と娘が思った時に、家のことを忘れられたり、親以外の大人と話せたり、そんな場があってほしい。そうすれば、ちょっとでも気持ちのバランスを取れて、深刻に思いつめてしまう可能性を減らせるかもしれない、という風に。

私のこの淡い期待が機能するかどうかは、その時になってみないとわからない。自我や自立心が育っていく中では、ウザがられたりすることはどこかであるはずで、親の私が娘によく思われたいという希望は捨てなければと思っている。だから、「サードプレイスの存在があるから良い親子関係が築けました」みたいな都合の良い未来は来ないかもしれない。

親の期待は儚いけれど、それでも私は娘のことが大好きで、大事にしたいと思う。この街を上手く使って成長してくれたらと思うし、ちょっとでも愛着を持ってくれたら嬉しい。これは私の素直な思いだ。その先で娘がどう思うかはコントロールできないから、淡い期待や希望として、心にしまって抱えていく。

淡い期待をしまったまま抱えていく孤独は、私もまたこの街のどこかで癒しながら、自分なりにバランスを取ってやっていくのだと思う。そして大人はフラッと遠くへ行けるので、ここではないどこかで癒すこともできる。大人はずるい。日々の生活で選択肢が多い。だから、選択肢が少ない他の誰かについて思いを馳せるくらいのことは、しなくてはならない。自分の子とか、よその子とか。

全然さっぱり良い親ではないから、私はまた、自分には何ができるだろうと、うろうろしながら試行錯誤していく。良い親ではなくても、親になってみて楽しいと感じることはたくさんあるし、それをくれた娘に感謝しながら。

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