創作でついてもいい嘘とつかないほうがいい嘘

 お久しぶりです、こむてくです。遅ればせながら、前回は皆さまに沢山のスキ及び沢山の方々のフォローを頂き誠に感謝しております。
 当方にとって驚きと喜びと様々な情報をくださる方々と繋がれるいい機会を得られた、嬉しいものであったことをこの場にて報告させて頂きます。


 さて、今回の内容ですが、タイトルのとおり「創作でついてもいい嘘とつかないほうがいい嘘」です。
 「え? そもそもフィクションって存在そのものが嘘じゃないの?」と思われるかもしれませんが、そこはこの記事を読み終わったのちにご理解いただければ幸いです。


 まず、「ついてもいい嘘」とは何か。ひとことで申し上げれば、「情報の嘘」です。

 フィクションの創作ですからね。魔法のような非科学的なものもドラゴンのような非現実的な生物も、全くもって嘘っぱちの世界も描いてしまっていいわけですよ。

「架空の世界に想いを馳せる」

 って、創作物の醍醐味のひとつですから。

 尤もビジネス文書等でこの価値観はあってはならないとは思ってます。たとえ賑やかしや気遣いや気休めが目的であったとしても、情報の伝達や共有を目的として発信したものに、「事実の意図的な捏造や歪曲や隠蔽」なんてあっていい話では断じてないはずです。


 では、「つかないほうがいい嘘」とは何か。ひとことで申し上げれば、「感情の嘘」です。

 考え方は、ビジネス文書の逆ですね。悲しい情報や場が盛り下がる情報、残酷な事実も逐次報告すべきが現実の世界かとは思われますが、創作の世界ではそんなもの書いても「無駄に寒い」だけです。
 創作物は戦地でのプロパガンダよろしく、「盛り上がってナンボのもの」です。創作において「結末にたどり着く過程の盛り上がり」は最優先事項です。
 別に何が何でも終始テンションアゲアゲでハッピーエンドに持っていかなければならないわけではありません、たとえバッドエンドを迎えようとも、絶望のなかでドン底まで転げ落ちる過程を上手く描き読む側のテンションを見事に乱高下させればそれはそれで盛り上がりますよ。

 具体的に何をすべきかと言いますと、「たとえ嘘をついてでも読む者の感情を刺激」するわけです。行動に共感し応援したくなる主人公、誰もが憧れるヒロイン、そして恐ろしくおぞましく生かしておくわけにはいかない悪役を何としてでも書くわけです。
 たとえ主人公が非科学的な手段で空を飛ぼうと、ヒロインの立ち居振る舞いが非現実的に都合がよかろうと、生物学上生存できるわけがない巨大なドラゴンが存在しようとも創作の世界で情報の嘘は許されます。
 それが盛り上がりに繋がれば、なにも問題ではありません。

 ただ、たとえリアルではないフィクションの世界であろうとも、「リアリティ」は要るわけです。リアリティの足らない話は説得力に欠ける「寒い話」です。
 具体的に言いますと、あまりにも強引なご都合主義は「寒い」ですね。
 「そうなるわけがないだろ」が頭のなかでどうしても先行してしまう話は、「盛り上がり」きれず「寒い」です。


 そこで重要になるものとして、人間が吐ききれない嘘が、「感情の嘘」です。主観的にカッコいいと思ったコト以外を客観的に見てカッコよくは表現できず、主観的に美しいと思ったコト以外を客観的に見て美しくは表現できず、そして主観的におぞましいと思ったコトしか客観的におぞましくは表現できません。

 どうしてもですね、「ウケ狙い」としてトレンドに従い自分自身の価値観を度外視で周囲に迎合することを最優先事項として作られた作品は白々しくなってしまうわけです。
 なぜなら、「主観的な白々しさ」が作品に反映されてしまいますから。


 ならば、「本物の感情」とは何か。それは、「持った経験のある感情」です。

 例えばなぜ非科学的な方法で空を飛ぶ姿や一瞬で空間をワープする姿が多くのひとの胸をときめかせられるのか? それは、多くのひとが「地上や水上を移動する煩わしさ」の感情を経験したことがあるからです。

 だからこそ、直訳すると「幻想」であるファンタジーの世界に現実の世界の煩わしさから開放されて空を飛ぶ描写がされると「ウケる」わけです。

 なぜ非現実的に都合がいい創作物のヒロインが多くの男性に喜ばれるのか? それは、多くの男性が現実の世界ではどうしても主観的な感情や都合が存在してしまう現実の女性に対してのストレスを経験したことがあるからです。

 さらになぜ生物学上有りえないドラゴンやキマイラのおぞましさを主観的に感じることができるのか? それは、幼少期に初めてワニやライオンのような大型肉食動物を図鑑やテレビで見たときのおぞましさがフラッシュバックされるからではないでしょうか。
 大人になってからテレビやパソコンのような媒体で現実の動物におぞましさを感じるには、あまりにも目にした回数が多すぎて感覚に耐性がついてしまっています。ファンタジーの世界の怪物くらいデフォルメされていなくては、「恐ろしくおぞましいモノを初めて見た恐怖」の感受は難しく、「何としてでも驚異を排除したい衝動」の共感を望めないでしょうね。


 この「感情の経験」において、いちばん強いものはやはり実体験でしょうね。「五感全てで感じた感情の経験」は、メディアや創作物での「視覚聴覚の経験」に遥かに勝ります。

 学生時代の部活や勉強の大変さ、社会に出てからの社会の厳しさ、今までの人生での人間関係の難しさ等の経験は、創作においてそういった意味では「これ以上ない武器」ですね。
 文章はあくまでも視覚情報ですが、それを五感全てで得た解像度の高い情報をもとに表現できるわけです。そこから産み出した創作物に、「リアリティ」を持たせることはメディアや創作物に目を通した経験からのものに「リアリティ」持たせることより遥かに簡単です。

 あまり声を大にして言える話ではないですが、もし幼少期に性犯罪の被害に遭われた方がギガンテスやビッグフットのような怪物を描写されたらさぞかしおぞましいものとなるでしょうね。
 自分より体格の大きな相手に欲望の赴くままに心身を貪ろうとされる恐怖の再現は、おそらく身の毛がよだつものとなるでしょう。

 え? 「流行りのモノでなければそもそもが興味を持ってもらえないだろ」ってですか? それはそうですね、ぐうの音も出ないです。


 では、「流行りのモノのどこに魅力を感じたか、なぜ流行りのモノが気に食わないか」の感情をもとに創作されてみてはいかがでしょうか。
 流行りに感情が迎合できる部分には共感の感情を、迎合できない部分には反感の感情を込めてしまうわけです。
 そのほうが、ただ同調圧力に屈して白々しく書くよりも「面白い作品」は作りやすい気がします。合言葉は、

「情報の嘘はついてもいいが、自分の感情の嘘はつくな」

 です。

 右向け右の国・日本でそれをやるのは勇気が要るのは確かですが、「悪名は無名に勝る」のも確かです。
 それに、「自分が書いていて不愉快なものを創作する」だなんて本末転倒じゃないですか。どうせなら、面白い作品を楽しく書かないとと僕は思いますよ。


 今回は以上です、ご拝読ありがとうございました。では、またいつかよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?