それは本当に自分の望みなのだろうか
誰かの役に立ちたい。困っている人を助けてあげたい。ありがとうと言ってもらうと嬉しい。
そうです。その通りです。
生きていることを実感するには他者との関わりが必須だし、関わりの中でそんな気持ちを持って欲しいと思うことは当然のことです。
でもそればっかりになってしまっていませんか?今日は誰かのためにエネルギーを使い続け、疲弊した私の経験から抜け出したエピソードをお届けしたいと思います。
私の娘は小学4年生のころから不登校になりました。我が子ながら、不登校の心のうちは複雑でなかなか理解出来ませんでした。
元々勉強は出来る方だった娘が、1週間、2週間と時間が経つにつれて勉強が遅れていくと感じた私は、「学校に行ってなくても、家で勉強をすればいいから」と、本屋さんへ行き「欲しいドリルはどれ?やりたいやつは何?」と、娘のために、自分の焦りを解消しようと動き回っていました。
「〇〇に興味がある」「(テレビを見ていて)楽しそう」「これは面白い」という言葉を聞いたなら、本人が興味を持っているかのように解釈をして、『娘のために』と、『私のために』行動をしていました。
しかしこの結果は、みなさんお分かりの通り、母の空回りで終わるのです。
勉強はどんどん遅れていく。興味があると言って買ったドリルや本も、ほとんど触れられずに溜まっていく。制限時間を設けたゲームやYouTubeの時間も守らなくなって、今までに想定した娘の姿からはかけ離れていくのでした。
『これを望んでいたわけではない』
娘のための、という名の自分の望みではなく、私自身のための望みは何だろうか。
人と人が優しく接することができ、人間関係がよりよくなるコミュニケーションを、たくさんの人へ伝える講師として、全国を飛び回りたい。いじめやハラスメントがなく、どこに行って安心して過ごせる社会のために、私にしか出来ないことがある!と思って研修講師になることを決めたのを思い出しました。
娘の成長を願うことも大切にしたいことだけど、それが全てではない。自分のやりたいことに時間を使うことも、罪悪感を感じずにやっていい。周りの目も、自分自身の評価も、「自分の望むことのために、時間を作っているか」にフォーカスしてみよう。
そう思えた時から、私は娘の人生から離れ、自分の人生を歩むことが出来るようになりました。
それからというもの、講師の仕事も楽しく出来ているし、そんな私のイキイキ働く姿を見た娘も少しずつ自分のやりたいことを自分のペースで進めていくことが出来るようになってきました。
今やっていることは、誰の望むことですか?
自分の望むことを、出来ていますか?
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