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(18)再びジョージア映画特集 第二部

[2015/3/13]

 昨年(2014)末MOMA(ニューヨーク近代美術館)で、ジョージア(旧称:グルジア)映画特集第二部が上映された。第二部もソ連映画として製作されたサイレント期から、ジョージアの独立後の最近の映画までヴァラエテイに富んだ一国の映画史を一挙に見ることができた。

1920年代の前衛映画

 オープニングは無声映画で生演奏と弁士付きの『私のおばあちゃん (My Grandmother/ Chemi Bebia/ Moya Babushka)』(29)。

これはまさに、驚愕の映画であった。映画を紹介したゴスフィルモフォンド・ロシア国立アーカイブキュレーターのピーター・バグロフの紹介によれば、官僚主義を風刺した本作は検閲段階で問題となり1970年代まで公開されず、コテ・ミカベリジェ監督は本作品の公開を待たずに亡くなったという。この作品はジョージアの前衛演劇の伝統に基づくということだったが、スラップスティックな人物の動きや荒唐無稽の設定はソ連の1910年代の前衛芸術もかくあったのではないかと思わせるものであった。例えば題名の「私のおばあちゃん」がいつでてくるのかと思っていると、これは失職した主人公に対して与えられた助言の一つで、その助言の紙には「1.おばあちゃんを探せ 2.押しつけがましくせよ 3.積極的に振る舞え」と書いてあり、1番目の助言は意味をなさないものだ。題名からして何というナンセンスなのだろう!おばあちゃんの登場を待つ観客に見事に肩透かしをくらわしている。官僚主義の実態はこの程度に意味をなさないものだ。それほど意味がないことは日常生活にもあり、かといって目くじら立てて排除するほどのことでもなく、その意味のなさを楽しむのも人生のうち、といっているようであった。しかも、意味のなさやものごとが理性的に整合しないことに積極的意義を見出すのが前衛芸術の特徴の一つなので、これは意識的な前衛的表現だ。
 映画は、役所の人々の怠慢さの描写から始まる。居眠りをして者もいたり、「紙を大切に」と標語をかかげている役人は膨大な数の紙飛行機作っている。事務所の階段の下にあるダビデ像のような男子の裸像が動いて人間になったり、件の紙飛行機は彼が想いを寄せる秘書のところに届いて空間を飛び越したり、自由自在にナンセンスな状況が続く。
 空間と時間の操作は遊び心に満ちたものだ。あまりに無気力な役人と秘書の動きは鈍く、そのうちスローモーションになり、さらには静止してしまう。そこに「しかし、共産党青年部では違う」と字幕が入り、戸外の青年が大きな棒状のものを投げると、次の場面では元の事務所に戻り、眠っていた男の上半身に巨大な万年筆(前の場面で巨大な棒状のものであったのは、実は万年筆だったのだ)が突き刺さる。
 また、主人公の役人が職を失うとその姿が漫画で描かれた小さな男となり、壁の新聞記事の一部となってしまう。次の場面では人間の彼が家に戻り首をつろうとしていると、ブラックマーケットで買い込んだものを両手にした妻が、娘とけたたましく踊りながら戻って来る。母娘は踊りに夢中で夫に気づかず、夫は首つりをあきらめてしまう。しかし娘が床にあった新聞の中に父親の失職した記事を見つけて母にみせようとするので、それを阻止するために夫が奮闘するスラップスティックな動きに、部屋にある猿のおもちゃやキューピーや人形たちまでアニメーションで動き始める。このような過剰な遊び心に私は再び感激してしまった。
 映画を通じて、働かない役人と扉の外で永遠に待たされる人々の対比が続き、最後には労働者が乗り込んで怠け者の役人たちを追放する。髪の毛がなく精悍な顔つきでロシアの農民風のゆったりとした上着を着ているこの労働者は、映画の中ほどで50ルーブルを自分の仕事の現場にまわして欲しいという嘆願書を持って登場するが、その嘆願書は役所の丸テーブルの上でたらい回しにされる様子が可笑しい。紙が静止してはアニメーションで次々と書き込みをされて隣の席に座る次の担当者にも小使いの手でいちいち届けられる。直接隣に座る者に渡せばよいのだが、それもしないので小使いの登場という無駄な労働が繰り返されるのだ。しかもその挙句、何も解決されない。最後にこの労働者は責任者の椅子に座り、周囲の怠け者たちを投げ飛ばすと彼らは壁にぶつかり静止したと思ったら影絵になってしまう。「役所仕事、無能な働き、官僚主義に死を!」という勇ましい標語がその影絵の上に登場し、その言葉が字幕で繰り返されて映画は終わる。
 こうして労働者が官僚主義を退治して終わるのだが、検閲を通らなかったのは官僚主義に対する風刺が効きすぎていて、検閲官自身もこの映画に脅威を感じたからに違いない。

新鮮な最近作

 最近作では『ブラインド・デートBlind Dates/Brma Paemnebi』(13)が第26回東京映画祭(2013)でも上映されていたが、庶民の何気ない哀歓が乾いたユーモアで描かれる。

ニューヨーク大学のフィルム・スクール出身のレヴァン・コグアスヴヒリ監督が自作紹介をしたが、処女長編作『ストリート・デイズStreet Days/Quchis Dgeebi』(10)が暗い題材だったので、次は明るい題材をと思っていた時、身近にいた友人が目に留まったという。この友人は頭脳明晰で性格もよいのに、40歳になっても独身で両親と暮らしていて、なぜか女性に縁がない。この話をニューヨーク大学の恩師のボリス・フルミンにしたところ興味を持ち、二人で脚本を書いた。そして主役サンドロ役はモデルになった人物本人のアンドロ・シュフヴァレリジェに演じてもらったと言う。さすがに素人然としているが、人の良いさそうな彼の人間性が次第ににじみでてくる点は好感が持てる。
 サンドロを心配してインターネットでデートをアレンジしてダブル・デートをするフットボールのコーチのイヴァ役のアルチル・キコジェも、猪のような風情で素人然した中年男性だが、この人も味がある。教師のサンドロが恋に陥る生徒の母マナナ役のイア・スヒタシュヴィリは実に美しく、彼女はプロの俳優で出演作も多い。マナナの出所したばかりの夫で嫉妬深く女たらしのテンゴを演ずるヴァホ・チャチャニジェもプロの俳優。
 ジョージアの首都トビリシに住むサンドロとイヴァが会う女性たちは、バスで地方から訪ねて来るのだが、その一人は盲目で(英語で「ブラインド」)、初対面の相手とデートするという意味の題名の『ブラインド・デート』と掛詞になっている。監督によれば、実際盲目の女性とデートした友人がいたので、そのエピソードも入れたというが、映画の中でこの盲目の女性はサングラスを外さないので表情が判らない。しかし彼女は林檎の皮を見事にむいたり、窓の外の街の音を聞きたがったり、固くなっているイヴァの身体に手を触れて積極的に振る舞ったりしてコンプレックスを抱いていないのが好ましい。
 『ストリート・デイズ』は監督によれば、ソ連邦崩壊後独立したジョージアの現状についていけない「失われた時代」の人々を描いたという。主役の中年の麻薬中毒者チェキを演ずるグガ・コテティシュヴィリも禿げてさえない中年男性で素人然としているが、本職は美術監督のようだ。曇り空の下で物悲しい通りや活気のない住宅街が舞台になっているこの映画では、男たちはぶらぶらしていてだらしなく、女たちが働き、物事をてきぱき進めていく。
 チェキとその仲間は学校の前の道で麻薬取引をしている。学校の窓から見える彼らの姿は、青少年に悪影響を与えると女校長は危惧している。今は大臣になっているチェキのかつての級友の十代の息子のイカが、果せるかなチェキのところに麻薬を買いにくる。やはり女校長の危惧は現実となったのだ。
 チェキを逮捕した警官たちは、イカを麻薬使用の現行犯にすることをチェキに強要する。警官は有力者であるイカの父親から金を脅し取ろうとしているのだ。体制が変わっても権力の腐敗は続くことが示される。
 妻が古着屋商売に失敗し、銀行の差し押さえに直面して金が必要なチェキであるが、自分を慕うイカが警官に利用されることに悩み続ける。一方、イカは裕福な父親がチェキに金を融通しないので、チェキをそそのかして父のパートナーの娘の誘拐をして身代金要求を企てる。しかしどこまでも悪人になれないこの二人はずさんで穴だらけで滑稽でもある行動の連続で、この計画にもつまずく。
 時代の変化に要領よく生き抜いていく人々と、変化に対応できず覇気はないが憎めない人々が対比され、監督は後者に同情を寄せる。しかし後者が辛うじて守ろうした人間の尊厳は、虫をひねりつぶすように押し殺される。こうして映画は悲劇で終わり、現実の厳しさも寒々と表現される。
 ジョージアは日本からもアメリカからも遠い国で、人々がどんな生活をしているのか想像もつかなかったが、この2作の映像から庶民の息遣いを感じることができた。

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