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祝福

羽根が生えるのは、薬指を失った時よりも痛かった。

肩甲骨が皮膚を突き抜け、まるで成長期の子どもの背が伸びるように、少しずつ生えてくる。血を含んだそれは肉に似ておぞましく、風呂場の鏡におびえながら、日に何度もシャワーを浴びる。根元から文字通り骨の髄までお湯がしみて叫び出しそうになるけれど、それでもきちんと洗わなければ、羽根に血の色が沈着する――どころか肩甲骨ごと腐り落ちてしまうというのだから、毎日戦争だ。

一瞬の激情。

仕事の忙しい両親に代わり、わたしを育ててくれたのは母方の祖父母だった。兄が生まれずに死んできょうだいのいないわたしを祖父母は不憫に思ってか、望むものは何でも与えてくれた。一度きらいだと言った食材が再び食卓に上ることもない。
祖父は大工をしていて、庭の倉庫にはのこぎりやらカンナやら、大工道具が一式そろっていた。危ないから倉庫に入ってはいけないよと、祖父も祖母も、わたしに口酸っぱく言い聞かせたが、それがかえって幼いわたしの興味をそそるのだった。

その日は暑かった。夏というのは暑いものだけれど、それにしたって、異常な暑さだった。夏休みも終盤に差しかかってわたしはすっかり暇を持て余していて、いやに青い、絵の具を思い切りぶちまけたような安っぽい空が妙に腹立たしく、クーラーを最大限効かせた自室の畳の上で、日がな一日寝転がっていた。
祖父は現場、祖母は町内会の集まりで公民館へ。ひろい家に、わたしはひとりだった。

ふと、庭の倉庫が気になった。祖母のつっかけを履いて玄関を出ると、蝉の鳴き声が一斉に耳を襲う。倉庫の鍵はいつも軒先の盆栽の下に隠してある。祖父母は上手く隠しているつもりだっただろうが、子どもは大人が思うよりずっと目敏い。
倉庫の中はひんやりとしていて、振り返ると、蝉が喚き、陽の照りつける外の様子がまるで夢物語に思えた。土なのか、錆なのか。使いこまれた工具のにおいがやさしかった。

せっかく入ったのだから。そんな、何でもない気持ちで電気のこぎりを手に取った。充電式の簡易なタイプだったけれど、腕から全身に伝わる振動は、わたしが行わんと想像した悪事のすべてを十分に肯定した。

やってしまった。と、思ったときにはもう、左手の薬指は倉庫の床に転がっていた。自分の身体から分断され、二度と動くことのないそれはままごと人形のようで、痛みにうずくまりながら、落ちた指の上に赤黒い血が滴り落ちるのを、わたしはただ茫然と見ていた。

それからのことは、あまり覚えていない。だが一連の事件が、両親や祖父母のよそよそしさに拍車をかけたことは間違いないだろう。とはいえ、指一本、ましてや利き手でない方の薬指が欠けた程度で日常生活に大きな支障もなく、わたしはごく普通に進学、就職し、一人暮らしをはじめた。

そしてある日、不審な男が現れて告げた。

「あなたは選ばれたのですよ」

宅配の予定もない休日。普段なら居留守を使うのに、どうして出てしまったのか。黒いレースのベールに隠され、顔の全体像を確認することはできないが、口元は月船を張り付けたようで、上から下まできっちりボタンで留められた――こちらも黒色の――衣服は、ワンピースに似ていた。胡乱げなわたしの視線を故意に無視して男は続ける。頃合いを見計らって、生まれてこの方無宗教ですが、と合いの手を入れてみたが、それは別に関係がないのだと言う。とにかくわたしは非常に幸運な存在で、これは千年に一度の滅多にないことなのだから、心から感謝し励むようにとのことだった。
新手の宗教勧誘かと思っていたが、「すぐに分かりますよ」という男の言葉通り、その翌日からわたしの羽根は生えはじめたのである。

眠れなくなった。当たり前だ。背中がそんな状態では寝返りすら打てないし、痛みは日に日に増していく。鎮痛薬も効果はなく、体力の限界を待って気絶するように眠る。
5年勤めた職場も、電話ひとつで逃げるように辞めてしまった。
だれにも会ってはいけない。だれに言い聞かされたわけでもないのに、ただそんな確信めいたものがいつも頭の中にあった。
家族や友人に頼ろうとメッセージを打ち込んでみても、いざ送信しようとすると手の震えや冷や汗が止まらない。打ち込んだ文字を消して、当たり障りのない返信をする。
次第にメッセージアプリを開くこともなくなった。

3ヶ月を過ぎた頃、失くした指の夢をよく見るようになった。内容は決まって同じで、薬指がひとりでに床を這い、夏のなかへ消えていく。主であったはずのわたしも、これで在るべきところへ帰れるのだとなぜだか安堵しながらその様子を見送るのだ。
薬指は言う。これで自由になれる、と。

5ヶ月。食事を摂ることができなくなった。口に入れてもまるで咀嚼することを忘れたように、はじめから自分の中に食という概念が存在しなかったかのように、訳もわからず吐き出してしまう。
何日、何十日。何も食べなくとも平気──どころか、生えかけの羽根や肌の色が透き通り、際立っていくような感覚さえあった。
そのうちに、水も口にできなくなった。

たっぷり半年かけてようやっと生えきったわたしの羽根は、広げてみたらワンルームがほとんど埋まってしまった。
窓の外に目をやれば、あの日と同じ安っぽい青空に入道雲が我が物顔で浮かぶ。必死に鳴き叫ぶ蝉の声が遠い。
鏡を見る。陶器のような肌、艶やかな黒髪、真っ白の羽根。
ああ、これは一体だれだろう。
お気に入りのカーペットにも、ベッドにも、幼いころから一緒に過ごしてきたくまのぬいぐるみにも。赤黒い血が染みついて、ぜんぶぜんぶ、もうとれない。
この部屋のなかで、わたしだけが白になる。

かみさま、どうか。

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