伸ばした手は【第9回ワンライ】

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暑い。
 余りの暑さに、僕は目を覚ました。時計を見る。まだ起きるには、1時間も早い。
 まあ、そもそも今日は休日だから、別に何時に起きようが構わないのだけれど。起きて家の用事――1週間ぶりの掃除とか――を済ませようと思っていた予定していた時間より、大分早かったのは確かだった。
 とは言っても、太陽はカーテンの向こうで燦々と照っていて、朝であることには変わりは無い。汗でべとべとの身体を引きずり、冷蔵庫に辿り着く。良く冷えた麦茶を煽ると、カラカラに張り付いた喉が潤うのを感じた。
 来るはずだった台風は大学を休みにもしてくれないで去って行き、梅雨だというのに代わりに真夏日を連れて来た。
 カーテンを開け、窓を開ける。少しだけ心地よい風と、子供のはしゃぐ声が聞こえた。近くの保育園の園児たちの声だ。こんなにも暑いというのに、子供は元気である。
 暑い。僕は伸びるのも気にしないで、パジャマ代わりにしているTシャツの襟ぐりで、顔の汗を拭った。
 暑い。確かに暑かったが、僕はエアコンの電源を入れる気にはなれなかった。
 暑くて暑くて。余りにも暑くて、あの日に似ていて。僕は、「君」のことを思い出してしまったからだ。
 あれは、中学3年生の時だっただろうか。東京のコンクリートジャングルには似ても似つかぬド田舎で日々を過ごしていた時だ。

 俺はバスケ部のキャプテンで、生徒会長を務めていた。彼女――月原――は男子バスケ部のマネージャーだった。彼女は俺と同じく3年生で、学校のマドンナと言うのは少々言い過ぎかもしれないが、それぐらいとても人気のある女の子だった。成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗と三拍子揃った完璧な女子であったが、それを鼻にも掛けず誰に対しても優しく接し、人懐っこく、それが彼女の完璧さに股を掛けていた。
 俺ももちろん、彼女に気が無かったわけでは無く、少しでもかっこいいところを見せようと、努力した結果がキャプテンという称号であった。彼女は、バスケ部員たちを名字に君付けで等しく呼んでいたが、俺のことだけは、「主将」だとか「キャプテン」だとか呼ぶこともあり、密かに優越感を覚えていた。
 月原は家の手伝いをしているようで、度々部活を休むことがあった。彼女がいないと部員たちの士気は笑えるくらいに下がった。俺だって彼女がいないと内心残念で、やる気も下がったが、キャプテンらしく皆を叱咤激励し、辛く厳しい練習に大いに励んだ。
 6月に大きな大会があった。結果は惨敗だった。元々俺たちのチームはそこまで強くなかったから、妥当な結果といえばそれまでなのだが、俺たちの3年間がこれで終わりなのだと思うと、凄く凄く悔しかった。彼女も泣いていた。
 7月。部活も引退して暫くたち、俺たち3年は受験勉強へと身を入れることになった。久しぶりに顧問に呼ばれ、元キャプテンの俺の力が必要か、等とバスケが出来なくて持て余した身体で、職員室を訪れた。顧問の隣には、2組の担任がいた。2人も少し厳しい表情をしていたような気がする。
「月原が学校を休んでいるんだ」
「月原が?」
「ああ。お前、月原と仲良いだろう。見に行ってやってくれないか」
彼女と仲が良いと言われた俺は、内心舞い上がったが、あの真面目な彼女が学校を休んでいると聞いて、正直信じられなかった。しかし、2組は彼女のクラスだ。顧問と担任が言うんだから、間違いないだろう。そして、俺に頼むということは、何かあったということだ。
「分かりました。今日の帰り、寄ってみます」
「ああ。頼んだぞ」
1度だけ、遅くなったから、彼女を送っていったことがある。「家の近くだから、ここで」と別れた場所に行ってみた。そのときは暗くて気付かなかったが、ここは、昔、俺が保育園に通っていた頃、住んでいた場所に近かった。
「――キャプテン?」
彼女の鈴の鳴るような可憐な声がして、振り返る。買い物袋を提げ、びっくりした表情を浮かべた月原がそこには居た。
「最近、休んでるから、様子を見て来て欲しいって言われたんだ」
「そう。……そうなの。でも、大丈夫よ。何でもないから」
月原はそういって微笑んだ。月原の服装は、制服だった。
「荷物重いでしょ?運ぶよ」
「え、でも」
「いいから」
俺は強引に月原の荷物を奪った。月原は困惑した表情を浮かべて、その場に立ち尽くした。逡巡する様子を見せ、目を俺と地面の間で、何度も往復させる。暫くして、意を決したように、月原は口を開いた。
「……誰にも、言わない?」
「何を?」
「今から、見る事全て」
そういうと、俺の返事を待たずに、月原は歩き始めた。慌てて後を付いていく。どういうことだ。意味が分からなかった。俺の少し前を、月原が歩く。道中、会話は一つも無かった。
「ここが、私の家」
「え?」
月原が足を止めたのは、絵に描いたようなおんぼろ屋敷だった。古い木造平屋建てで、窓にはガムテープが貼ってある。恐らく、割れたところを補強しているのだろう。俺はびっくりして、その場から動けなくなった。月原は寂しそうに笑った。
「……ごめんね、ありがとう」
そういって、荷物を奪い返そうとする月原を見て、ようやく、足が動いた。
「いや、別に謝る必要なんて。玄関までは運ぶよ」
今度は月原が驚いたように目を見開いた。月原の後を付いて、玄関に荷物を置く。
「お母さんが、ちょっと体調悪くてね。家の事私がやってるから」
唐突に月原が話し始めた。一瞬考えて、学校を休んでいる理由だと合点がいった。
「……お父さんは?」
「いないの」
「……ごめん」
「ううん、いいよ」
それから、月原はぽつりぽつりと語った。下に弟と妹が居ること。高校には多分行けないこと。そして、
「キャプテンは、こんな風にならないでね」
「は?」
「キャプテンも人気者でしょう?皆、キャプテンのこと好きだから」
「……そんなこと」
「あるよ」
俺は堪らなくなって、じゃあ、頑張ってとか何とか言って、その場から逃げ出した。月原が、背中の向こうで泣いているような気がしたが、俺は振り向かなかった。走って走って、がむしゃらに走って、気が付いたら自分の家の前に居た。玄関を開けて、中に入る。母が何やら声を掛けて来たが、無視して2階の自室に飛び込んだ。ベッドの上に身を投げ出す。肺に溜まっていた息をゆっくりと吐きだしたら、涙が出た。
 もう駄目だった。母にばれたくはないから、必死に声をかみ殺して泣いた。
 ああ、彼女は居なくなってしまったのだ。完璧で、俺の心の支えになっていた彼女は、自分が他人にどう思われようと気にしない高潔な彼女は、居なかったのだ。
 中学の卒業式からしばらくして、月原は引っ越したと聞いた。

 僕は、網戸越しに太陽に手を伸ばした。伸ばした手は「君」と同じように、真っ赤に染まった。
 「俺」の理想が「彼女」だったように、月原の理想は「俺」だったんだろう。「俺」に理想を託したんだろう。
 だけど、ごめんな月原。「俺」はもういなくなってしまったよ。
 ああ、僕の掌は、あの時の「俺」と――「君」と――同じ色に染まっているというのに。
 酷く感傷的な気持ちになってしまった。掃除をする気なんてとっくになくなってしまった。窓を閉める。子供の無邪気な声はしなくなった。カーテンを閉める。僕の肌を刺すように照り付ける太陽は遮られた。エアコンの電源を入れる。
 あの日のような暑い空気は、人工的な冷たい空気に、徐々に塗り替えられていった。

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