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ウォーキングメディテーション

私は、無口なだけで自己主張が無いわけでは無い。口下手なだけで、話したいことが無いわけでは無い。

私の記憶にずっと残っている枷のような記憶。マイクロバスに乗って、幼稚園の遠足に出かけている。行き先は小一時間の距離にある自然公園。私たちは少し他の母娘とは違っていた。なぜならば、いつでも母、私、妹、一緒だったから。私は一卵性の双子でいついかなる時も妹と母を同じ時間を共有しなくてはならなかった。行きのバスの中で、自己紹介タイムがあった。マイクが前から順番に回されていく。他の園児は、元気よく自分の名前を言う。もちろん妹も母に見守られながら自分の名前を言う。次は私の番だ。でも、どうしても言えなかった。自分の名前すらも。人の前で何かを発することが、とてつもなく恥ずかしいことだと幼心に感じていた。なぜなのかはわからない。その事実に幼心に気づいてしまい、深く深く傷つき、自信を失った。その時が人よりもずいぶん早い、思春期への突入だったのだと思う。

声を張り上げて叫ぶこと。大きな声で自分の気持ちを話すこと。多くの人の注目を浴びる目立つ行為。人前で歌を歌うこと。その全てが不動の苦手事項となってしまった。

そう言う私を追い詰めたのは学校教育の現場であった。内向的な性格は、学校では生きづらい。ただ、母は違った。一切を気にも留めず、「それの何がいけないのか」とばかりに、声に代わる武器をさりげなく私に提案してきた。それは、ピアノであったり、書道であったり、お絵かきであったり。そして作文であった。今になって思えば、アウトプットするための素材を母は惜しみなく与えてきたように思う。音楽。それも大人が聴く音楽。漫画。それも大人が読む漫画。本。日本文学の代表格と言えるものはほぼ全て。図鑑。百科事典。図書館。書道は父から習った。お酒も早かった。こんなことを言っていいのだろうか。母は、ウィスキーを幼少期の私にこっそりと舐めさせてくれた。甘くて美味しいでしょう。と。およそ大人がダメだと言うことも、眉をしかめることも、母はこっそりと私に教えてくれた。なのでウィスキーやブランデーだけはお酒の弱い私でも飲める。良いのか悪いのかはわからない。

そして中学に上がる頃には、男に媚びず頼らずに生きていける力をつけなさい。そう言った。

その頃と、今の私、どう変わったのだろうか。一切を克服することなく、またその必要性を感じることなく、そのままこんな年齢になってしまった。けれども、このままではいけない、自分はダメだ、と言う危機感や焦燥感はきっととても強い方だと思う。その危機感が私を磨いてきた。

辛いことを克服するよりも、得意なことでそれをカバーする。それを逃げだと言う人もいるかもしれないが、私は自分に甘く、そしてストイックにそれを貫いてきた。自分を深く許す時と、激しく虐げる時の落差が激しい。明暗にいつも目が眩んでいる。溺れるように生きていると思うので、まるで生きていることそのものが奇跡のように感じることもある。

そんな私なので、すぐに容量がいっぱいになる。頭が散らかって仕方がない。そんな時は、体を動かすのが一番いいと知っているが、身体能力が決して高くなく、しかも団体で何かを成し遂げるのが苦手なので団体競技もストレス。競う系もダメ。結果、一人で黙々と歩く。気づいたら10km近く歩いている時もある。美しいなぁと感じたものをアイフォン で撮影しながら。撮影したものはただただ私のコレクション欲を満たすものなので、誰も傷つかない。

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歩き始めの時は、欲張りにあれやこれやと考え、そして自分に果てしなく期待している。そんな器でもない自分にどれほどの期待をし、それに応えられない自分をどれほど責めるのか。なんと残忍な人間であろうか。どれほどの高望みをし続けるのか。

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全てが照らし出される日中よりも、しっとりと更けてくる薄明かりの時間帯が好きで、ようやくその時間帯になって外に出られる。本当は、もっと太陽の光の下に出たいのに、たくさんの人と交わりたいのに。本当にそうか?いや違う。私は気を抜くとすぐに独りになりたがる。そのことに激しい罪悪感を持っているだけじゃないか。

そんな風に内省しながら歩いているうちに、いつの間にか無になっている。呼吸と、体の熱と、足音だけになっている。足音?スニーカーのソールはゴムなのに、コツコツと音がするのだ。

無心になって歩くこと。歩くことそのものが禅問答で、そして瞑想になる。私はそれをウォーキングメディテーションと昔から呼んでおり、熊野古道がある和歌山に引っ越してきた時は、まさに熊野古道は、ウォーキングメディテーションするための道だと、よくリサーチもせず歩いた。歴史や文化などの重みなど全く意に介さずに、ただ心と体のために歩いたのだ。信仰心があったわけでも、熊野ありがとうとも思わず、救われたいとも思っていない。

ただ、歩くこと。只管打坐。只管打歩。

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