同級生で幼なじみのメイドロボットに寄せて

 滝本竜彦「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」「NHKにようこそ!」を読んだ。別に書評とかはしません。10年も20年も前の高名な小説で散々評論され尽くしているだろう物について今更何か言うことなんてあるのか。無いけど。

 碌な学も教養も持たないまま、いつからか他人の文章を読むと頭が嫉妬と焦燥で満たされる症状があって、発達障害じみた活字アレルギーが年々悪化するのも手伝って6年間まともな読書をしないでいた。(僻みを拗らせてこういう自己認識になっていた。考えれば本当は両手に収まる程度には読んでいた)今更になってやっと、小説を書かなくちゃいけないのだから、現実逃避をやめなければどうしようもないと、何かの希望を思って、入れていたゲームを大体アンインストールして他人の小説を直視することに踏み切った。最初に、元々漫画版で好きだったNHKにようこそ!の関係に手をつけることにした。
 大した苦もなく最後まで読めた。それが余計に悔しかった。

 ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂについては、読んだ時には何か尤もらしいことを言いたくもあったが、その後すぐNHKにようこそ!を読んだ結果、言うことは無くなった。物語の流れも、テーマの帰結も、NHKと変わる所はほどんどない。美少女を助けてヒーローになって死にたい俺はパッと見メンヘラみたいな可哀想なヒロインよりも真のいかれた死にたがりで、オタクの友人が作品を一個完成させて、で、結局俺達は死ねない側の人間だから恋愛みたいなものをやりつつ頑張って生きる。個人的には、山本にしろ佐藤にしろ結果的に死ななかっただけであそこまで何度もカジュアルに自殺企図して未遂してる奴が、自殺できないサイドの常人だとは思えないが、そういう話。大体この内容で、それで比較するとどう見てもNHKの方が文章がキレていてユーモアのセンスが走っていて独創的な……どくどくどくどくうっせーよ、キャラも立っているので敢えてネガティブハッピー・チェーンソーエッヂに対して何か言うことがない。現時点から見れば本当に何度も見たようなテーマだと思うが、書かれた当時はどうだったのか検索はしない、評論意識が低いので。滝本氏の小説はこの2作しか読んでいないが、僕のエアやライト・ノベルも似たような内容なんだろうか? 検索しない、評論意識が低いので。
 序盤はラノベの臭さというか会話やシチュエーションに現実味のないわざとらしさがあるが、後半になるつれてそういったものは抜けてくる。平凡なラノベの導入をなぞることを意識したのだろうか。秀逸と思わせる会話や地の文のセンスだとか、上手いこと伏線回収して見せることでラストを良い感じにまとめる構成力だとか、疾走感を持たせたりするとにかく漫画みたいに情景がぱっと浮かぶような文章表現の豊かさだとか、小説の教科書みたいに上手いと感じたのは確かである。キャラクターが薄い、というか舞台装置に見える側面もあるが、1巻分の内容であれ以上のキャラクターの掘り下げを求めるのも難しいだろう。
「敵は諸悪の根源、悪の魔人。切っても突いても死なない不死身のチェーンソー男。」
 言わずにはいられなかったのだが、これチェンソーマンじゃん。私情だが、チェンソーマンも藤本タツキも嫌いだ。嫉妬とかじゃなくて普通に評価していない。当たり前のように涼宮すらも読んでいないし、オタク知識にあまりにも乏しい、後追いすらもまともに追いつけない逆張りFAKE自称オタクがこれ。

 NHKにようこそ!について言いたいのは、同級生で幼馴染のメイドロボットのヒロインはかわいいけど、盲目で聾唖で病弱でしかもアルツハイマーで分裂病の宇宙人で幽霊で前世からの絆がある狐はただのエグさでしかないんだよ。女児盗撮だのカルト見学だの美少女フィギュアと花占いだの次々に繰り出されるぶっ飛んでたりエモかったりするシチュエーション。あのしゃべくりのリソースの豊かさは陰キャコミュ障ぼっちにはありえない。説得力と実感ありまくりな人生論も怒涛の放出を見せてくる。はいはい、上手いっすね、さぞかし才能がおありなんですね。NHK(日本ひきこもり――ひ弱――悲観――協会あるいは、日本人質交換会)に始まり、秘密ノート、契約書、自作ゲーム、三日とろろなどといった。モチーフの掴みの冴えわたり振りやそのラストでの明快な伏線回収の畳みかけは、凡人には一生かかっても思いつかないものだ。佐藤がエロシナリオを書いている時の、佐藤の嗚咽がシナリオの一部になってせり上がってくる場面は良かった、削除、やめろ、もうイヤだ、ダメだ、俺は、俺は、俺は、『俺は、俺は……』『もうイヤだ、おしまいだ、俺の人生って、未来が見えない、もう死んだほうがいい』、怒張、悲鳴、全削除全削除……このシーンがカットされてしまったことが漫画版に対する数少ない不満になる。此処に関しては圧倒的な迫力で、本文中で一番印象に残った場面だった。
 漫画版を先に読んでいたこともあって、結論としては漫画版の方が良いと思ったのだが、そうでなかったとしてもこれ、実際漫画版の方が普通に良くないか。10人に読ませて4人がアニメ版を推すとしたら、残りの4人くらいは漫画版を推すんじゃないか。確かにそもそも小説版と漫画版では話が別物で、キャラの言動も異なるし、物語の帰結する趣旨も一致していないから、比較すること自体がおかしいかもしれない。しかし、話を単純化してしまえば、小説版の内容は、漫画版の4巻までの内容(つまり半分)に過ぎず、そこで結論を出して良しとしてしまっているようなものだ。単純に言えば、漫画版は小説版の2倍の内容があることになる。小説版は可哀想な女の子を救ってヒーローになって死にたい、短絡的なセカイ系の発想から抜けていない。漫画版でも4巻の後、最終8巻でその類の自殺願望は見せているが、岬と佐藤は、最終的により能動的にそれを否定している。このことは、キャラの掘り下げにも関わってくる。小説版では、柏先輩はほとんど出番が無く一瞬の舞台装置なのだが、メンヘラだったのが結婚して幸せになりました、と大体そんなような結論を付けられて終わる。山崎は、小説版では確かにこれはこれでエモい感じの友情というか青春の終わりの哀愁は無くもないのだが、基本的には、ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂのようにあっさりエロゲ―を完成させてしまって、さっさと田舎に帰って、結婚して幸せになりました、と結論付けられて終わる、あくまで佐藤のための舞台装置と言って差し支えなかった。彼と俺との友人偏差値は70を超えていたなんて話とは全然別物だ。佐藤の一人称であるからどうしても佐藤以外の視点は曖昧になり、個の人格を目立たせにくい。また、小説1巻分しかない内容でもある。とは言っても、流石に単純すぎないだろうか。そして岬ちゃんは、奇異で魅力的な言動はするものの、可哀想な境遇を軸にした、救われるべき女の子、の側面を出ていない。漫画版の岬が、自身の不幸な境遇を持ち出し、そして「私が今まで言ってきた事……あれ全部ウソだから!」と一度全てをひっくり返したのは、物語の結論を先に進めるための偉大な一歩だったと思う。佐藤についても、単純に8巻分の描写を得ることで、より「主人公として」だけではない佐藤達広一個人の人格が際立つようになった。岬ちゃんも、山崎も、柏先輩も、委員長も四郎も柏先輩の結婚相手のカウンセラーも、それぞれの視点からの描写が入ることにより、キャラクターとして立ち上がった。キャラクターの掘り下げという面では、安易なキャラ付けと評価する向きもあるだろうがその是非は置いておいて、漫画版は小説版と比べて圧倒的に優位に立っている。そして何より、大岩氏の絵がかわいい。めちゃくちゃかわいくてキャッチ―だ。これが一番のアドすぎる。
 これらの点から、NHKにようこそ!はどう見ても漫画版の方が良いだろ、と主張する。漫画版の連載にあたって滝本氏がプロットをちょこちょこ書いたと言っているから、このような形で漫画版を誉めそやしても取り立てて問題はないはずである。シナリオの完成度という意味では、小説版は非常に綺麗にまとまっているから、ちょくちょく脱線と停滞を繰り返したようにも見える漫画版と比べて評価する向きも分かる。漫画版の、人生の残り時間が迫る中で、少し進んではスタート地点へ戻るの繰り返し、良くなったかと思ったらやっぱり駄目で、事態も精神もどんどん悪くなる、2歩進んで3歩下がるような、それでも何か一つの結論にたどり着いていく、というのが、個人的には嫌いではない。また、漫画版は小説版に比べてより恋愛に比重を置いていて、最終的な結論の出し方も恋愛ありきに帰結したというのをもって、ある種潔癖な感性から漫画版を嫌悪し小説版を評価する、という考え方は、否定できないものである。それは幼稚なセカイ系を幼稚だと言い捨ててしまう行為の喪失感に似ている。幼稚なセカイ系は幼稚だと思う、政治的な……ある種道徳的な方の意味も込めて、怒りを覚える程に幼稚でクソだ、個人的な話。

 漫画版NHKについて、好きな点。岬……可愛いよ岬……構文の使い方がエモすぎる。佐藤と両親との苦しみを伴うエピソードの強化。冷蔵庫から出てくる概念岬ちゃん。それに溺れる佐藤。佐藤の両親を見ている概念岬ちゃん。概念岬ちゃんが紙袋被って体育座りで引きこもる佐藤の肩を抱く。リスカメイド服メンヘラ芸を始める岬ちゃん。屋上シーンをはじめとした柏先輩と佐藤の疑似両片思い的なエピソードの大幅な強化。それに伴って柏先輩の魅力も大幅な強化。佐藤がルート分岐の局面で毎回逃げ続けて、高校時代の部室の頃みたいにトランプをやりながら柏先輩が結局佐藤に失恋したみたいに断ち切られていく話。結婚相手に対して愛していないと明言した所からやっていく話。漫画版の方の柏先輩はやらせてくれるようなエピソードの余地がないように見えるしあったとして佐藤もそれに乗っかるようなキャラクターには見えないんだけどやったっぽいという事実だけが残っているのが微妙だ。小説版のオチとなった「日本人質交換会」の概念は、オリジナルキャラクターの四郎を助けることに使われ、岬と佐藤は、恋愛契約書によって最終プロジェクトを始め、それら全てを無に帰して終わること。山崎と佐藤、岬ちゃんと佐藤、でしかなかった関係性が、山崎と佐藤と岬ちゃん、三人の関係性として作り直されたこと。山崎がエロゲ―を完成させなかったこと。完成させられないことを分かっていたこと、その理由。二次元美少女の楽園から徐々に引き剥がされ、政治思想を抱かねばやってられなかった程に現実に引きずり込まれていく、「三次元堕ち」していく過程の迫力。最後まで実家に帰ることに無意味にも抵抗し、最後はさとうくんと岬と山崎くんのかくめいの花が咲いて、革命爆弾が不発だったことによって、失意の中で、終焉すること。それを岬が葬送すること。それでもまだ(また)エロゲ―を作ろうとしている姿が映されて漫画が閉じていくこと。最終8巻の内容の全て。それは無いだろという点。菜々子が美少女が好きで別に山崎が好きだった訳ではないらしい話。マジでなんだったんだあれ。意味わからん。佐藤にシナリオの才能があるフラグが立ってた話。誰もがちょっとした才能だけで成功するなら東京っていう街の地面が夢破れた奴らの屍でできてるなんてありえないんだけど、それでもこのフラグ一つで漫画版ラストの佐藤の未来にも幾何の希望が感じられるようになってしまう。それはこのダメ人間達の物語を語るうえでノイズになるのではないだろうか? とは言え元より、山崎が普通に絵が描けてエロゲ―を作る能力自体は持ってて巻末のオマケで公開されてたゲームもクオリティは十二分に確保されてそうでそこそこモテる見た目で岬ちゃんが表現力豊かな才気あふれるメンヘラで、という類の物語のダメ人間アピールを真に受ける方がどうかしているだろうか。岬……可愛いよ岬……
 漫画版で佐藤が永久にログアウトしようとした回数を数える気力がない。思い出せる限りでは借金に手を出した時。柏先輩の結婚報告を受けた時。柏先輩と城ケ崎氏のデートを目撃してからしばらく、何度も。餓死することにした時。取り壊されるアパートの天井で岬を行かせた時。そうでなくても違法薬物で入院、飲まず食わずで放置されるなど、カジュアルに生死をさ迷っている。岬の方は気を引く為に根性焼きを付け、ファッションで手首を切り、四郎を救うためだけに自殺未遂する。改めて見てもどちらもぶっ飛んでいて、それこそいつ死んでもおかしくない、そうでなくてもゆるい、狂気を感じるが、どうやらこの二人が死ねない一般人側の概念らしいというのは、本物にしか分からない感覚なんだろうか?

 せっかくそれなりに面白い小説を読んだのに、結局、漫画版の話ばかりしてしてしまう、感性が終わってるから、っていう、以上、感想。
 
 総括、自作を進める訳でもなく他所様の小説に出来の悪い的外れな評論家気取りの漫画読み様みたいなことをやってる人間がそもそもどうしようもない手合いな訳です、という予防線を張る。ひたすら予防線ばかりを張り続ける毎日です。誰かの作品を評価しようとする行為っていうのはそれによって評価者自身の愚かさや底の浅さを一番簡単に露呈させるから怖いんだよ。
 最初の方でネガティブハッピー・チェーンソーエッヂとNHKにようこそ!が内容一緒じゃんって言ったけどお前だって馬鹿の一つ覚えみたいにキャラ殺してミーツガールしたけど結局死別しましたとかぼっちでやっていきますみたいな話しかやってなかったじゃんって思ったら……思ったけど、反論の余地が何もない。書けてる物なんて何もないままカクヨムに投げ捨てている。こういう品性下劣な自虐をしながら同じ口で言うのは申し訳ないんですが、正直言って、カクヨム読んで欲しいです。https://kakuyomu.jp/users/mud-plane

画像1

↑ かわいい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?