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フェルメールはカメラ・オブスクラを使ったか?

 日本でも大人気の画家フェルメール(Johannes Vermeer 1632?~1635?)が、現代の写真用カメラの原型であるカメラ・オブスクラ(camera obscura)を使っていたか?という疑問はずっと昔からある。
 この疑問に関する国際的な認識は外国語不如意な私には分かりかねるが、日本での認識は大きく二つに分かれる。
 写真史・写真芸術系の書籍では「フェルメールはカメラ・オブスクラを使ったに違いない」という見方が多く、逆に西洋美術史・絵画史系ではほとんどこの疑問について触れていない。
 このように分野によって真逆の見方をする傾向は、
 写真史・写真芸術系にとっては「フェルメールという大画家がカメラを使うくらいカメラ≒写真は昔からすごかったんだ」という権威づけの意識があり、
 西洋美術史・絵画史系は「フェルメールのような大画家がカメラなんて安直な機材に頼るはずがない」という画家の技量に重きをおく意識があるためだと思われる。

 例えば写真系の本(書籍名を忘れてしまった)では、フェルメールの作品に見られる「白い小さな点描」が「カメラレンズの映像の、ピントがボケた部分」に触発されたものだとしている。
(≪牛乳を注ぐ女≫に描かれているパンなどにこの白い点描がみられる)

フェルメール≪牛乳を注ぐ女≫
≪牛乳を注ぐ女≫に描かれているパン

 一方で絵画史系では日本におけるフェルメール研究の第一人者と目される小林頼子は、2012年に発行された『限定版 フェルメール全作品集』(小学館)の解説で、後述するステッドマンの著作を紹介しつつそれを批判している。(批判の詳細については後述)

『限定版 フェルメール全作品集』(2012,小学館)

 身も蓋もないことを言えば、写真史系も絵画史系も自分達の思い入れが先行していて科学的検証がおろそかになっていた傾向があるように思う。

 そもそも「フェルメールがカメラ・オブスクラを使用していた(あるいは使用していなかった)」という証拠がはっきりあれば話は決するのだが、そもそもフェルメールに関する記録自体が非常に少ない。
 同時代の画家や科学者、著名人がフェルメール(と思われる人物)について書いた記述は少ないし、公的な記録も遺産目録などわずかだ。そうした記述や記録にフェルメールがカメラ・オブスクラを持っていたり使っていたという記述はない。
(このあたりの話はステッドマン『フェルメールのカメラ』に詳しい)

 だから「間違いなくフェルメールはカメラ・オブスクラを使っていた」という証拠はない。
 しかし反対に、少ない記録に書かれていなかったからというだけで「絶対にフェルメールはカメラ・オブスクラを使っていない」という証拠もない。なぜなら「使わなかった」という明確な記述もまたないからだ。
 いつかフェルメールがカメラ・オブスクラを使っていた(使っていなかった)という記録や、フェルメールが使っていたカメラ・オブスクラそのものが新発見されれば決着がつくのだろうけど、それまではあくまで状況証拠の解釈でしかない。

 ちなみに世間一般の扱いはもっと気軽で、≪青いターバンの少女(真珠の耳飾りの少女)≫が日本で展示された2012年にはコクヨから「フェルメールのカメラ箱」と称する組み立て式の小型カメラ・オブスクラが発売されたりしている。このコクヨのカメラ・オブスクラ自体は安価で出来がいいのでおすすめしたい。
 ただし後述するフェルメールが実際に使っていた可能性があると考えられるテント型カメラ・オブスクラではなく、箱型で内部に鏡を入れて上から覗き見る形式なので、これをして「フェルメールのカメラ箱」と名づけてしまうことには疑問を感じる。

コクヨ「フェルメールのカメラ箱」


・なぜフェルメールがカメラ・オブスクラを使ったかもしれないと思われるのか?

 この点について写真系の本では、先述したように「ピンボケの映像のような白い点描」をその理由に挙げている。実際、フェルメールの作品は写実的に描かれているが、拡大すると点描やぼかし技法が使われている。
 フェルメールよりも以前の絵画において、拡大してみても「まるでそのものがあるかのよう」に緻密に写実的描写をしている作品が少なからず見られることから、これはフェルメールの(個人あるいは同時代の)技法だと考えられる。

ファン・アイク≪ゲント祭壇画≫より≪合唱する天使≫
ファン・アイク≪ゲント祭壇画≫の拡大(一番手前で歌っている天使の胸元にある宝石)

 一方で絵画系の本ではフェルメールの作品が「正確な遠近法」によって描かれていることをその理由としてあげている。そしてそれが「遠近法(透視図法)で描けるからこそ」フェルメールはカメラ・オブスクラを使っていない、という。

 私見として加えるなら、フェルメールの作品のうち特に室内画が「特徴的な静けさと安定感」を持っているため、それが写真(特に資料写真や一部の商業写真)を連想させるためではないかと考えている。
 フェルメールの室内画は、比較的小さな部屋の中が窓からの光に照らされ、そこに人物がいるという構成だ。その室内は画面(見る側)から真っ直ぐに見える。一番奥の壁は画面(見る側)と真正面に対面していて、置かれている家具や天井と壁の境の線は水平垂直になっている。左右の壁や窓も消失点に向かって真っ直ぐになっており、文字通り四角四面な構成になっている。
 こうした構図をあえて例えるなら、住宅販売のモデルルームの写真やインテリア雑誌の写真のようだ。部屋やテーブルを斜めから見た構図の絵画作品と比べると、つまらないくらい安定した構図だと思う。

フェルメール≪音楽のレッスン≫
とあるモデルルームの写真

 描かれた人物たちも静かだ、皆何かをしている(ミルクを注いでいる、楽器を弾いている)が、まるで彫刻のように静止している。
 絵画なのだから動くわけはないのだけど、躍動感といった感じではない。そのままのポーズで5分10分じっとしていられそうな姿勢であることが多い。
 もちろんフェルメールに限らず、画家は人物を描くときにモデルにポーズをとらせたり人形を使ったりしただろう。また現代のように動作の瞬間を捉えた写真を参考にできたわけではないから、躍動感といっても限界があるだろう。
 それでも「髪をなびかせる」「腕をふりかぶる」「服の裾がはためく」といった動的な表現は見られない。なんなら表情すらとぼしい。こうした人物描写もあえて例えるならファッション雑誌のポーズをとったモデルの写真や、昔ながらの写真館で撮影した記念写真を連想させる。

・可能性としての「カメラ・オブスクラの使用」

 フェルメールがカメラ・オブスクラを使ったかどうかを科学的に検証した本は、日本語ではステッドマンの著作(2010,『フェルメールのカメラ―光と空間の謎を解く』,新曜社。原著2002, Philip Steadman, Vermeer's Camera: Uncovering the Truth Behind the Masterpieces, Oxford Univ Pr on Demand.)がほぼ唯一の文献ではないかと思われる。

ステッドマン『フェルメールのカメラ』表紙

 ステッドマンの著作は模型やスタジオセットを用いてフェルメールのカメラ・オブスクラ使用の可能性を検証しているだけでなく、カメラ・オブスクラの解説、フェルメールについての記録の検証なども詳細に行なっており、フェルメールについて知見を得るのにいい本だと思う。少なくとも『フェルメールのカメラ』というタイトルだけでフェルメールのカメラ・オブスクラ使用に批判的な人が拒絶するのはもったいない一冊だと思う。

ステッドマンは著作の中で
・フェルメールの時代には実用的なカメラ・オブスクラがあった。
・フェルメールと交流があった画家がカメラ・オブスクラを使用した記録がある。
・フェルメールは同時期に同じアムステルダムに住んでいた科学者レーウェンフックと親交があったと思われる。
といった周辺の状況証拠を挙げて、フェルメールがカメラ・オブスクラを使わなかったまでも知っていておかしくないことを説明している。肝心のフェルメール自身がどうだったかを明らかにする証拠がないが、それ以外はドーナツのように根拠が揃っている。

その上で、フェルメールの室内画のうち、はっきり消失点と収束線がわかる作品6点のみに絞り、それらの室内画を「もしカメラ・オブスクラで投影したら」、作品と同じサイズ、同じ構図の映像がほぼ同じ位置にできるとしている。
(選んだ6作品は≪2人の紳士と女≫≪紳士とワインを飲む女≫≪手紙を書く婦人と召使い≫≪ヴァージナルの前に立つ女≫≪音楽のレッスン≫≪合奏≫)

フェルメール≪2人の紳士と女≫
フェルメール≪紳士とワインを飲む女≫
フェルメール≪手紙を書く婦人と召使い≫
フェルメール≪ヴァージナルの前に立つ女≫
フェルメール≪音楽のレッスン≫
フェルメール≪合奏≫


6枚の作品をカメラ・オブスクラで見た映像とした位置関係を上から見た図
(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.138より)
6枚の作品をカメラ・オブスクラで見た映像とした位置関係を横から見た図
(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.139より)

 これは「フェルメールが気に入った構図を繰り返し用いた」と言うこともできるが、「この位置にカメラ・オブスクラを置いて構図を検討した」という可能性を十分うかがわせる。
 ステッドマンはこのカメラ・オブスクラが置かれた位置を「描かれた部屋の隣の部屋の壁際」だとしている。これは描かれた部屋の大きさと同じ大きさの部屋が隣にあった場合、カメラ・オブスクラの映像がちょうど突き当たりの壁の位置にくるという。そこに小部屋型のカメラ・オブスクラを据えると、壁に作品と同じ大きさの映像が投影されるはずだとしている。

壁際に小部屋型カメラ・オブスクラを設置したイメージ
(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.142より)

 さらにステッドマンは写真用カメラと、それに合わせて縮小された模型を使って実際にその位置関係でフェルメールの作品と同じ構図の写真が撮れることを検証している。

(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.160より)
(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.161より)

 私はステッドマンの「はっきりと遠近法(消失点や収束線)が確認できる室内画に限る」「模型やカメラを用いて実験する」「使用の可能性であって断言しない」という姿勢にとても共感している。当時の記録にもしっかりあたり、傍証も十分している。ステッドマンの見方に賛成するかはともかく研究として必要十分だと思うし、少なくとも主観的印象だけで語っているわけではない。

 とはいえステッドマンの見方にも疑問がないわけではない。小林頼子も指摘しているが、小部屋型カメラ・オブスクラの中に入って映像を見るのと、写真用カメラで撮影するのとではできる画像が鏡写しに逆転する。なぜなら写真用カメラは「カメラの外から」映像を撮影するが、小部屋型カメラ・オブスクラは「カメラの中から」映像を見るからだ。
(この「映像の見え方の違い」は、ステッドマン自身が著作の始めの方で解説しているのだが・・・)

(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.15より)
モチーフ(ここではフェルメールのサイン)が、カメラ・オブスクラではどのように見えるかを
解説した図。
(a)が小部屋型カメラ・オブスクラで見た場合、(b)が写真用カメラで見た場合に相当する。

 もしフェルメールが小部屋型カメラ・オブスクラを使ったのだとしたら、
「壁の向こうからガラス越しに映像を見る」か
「テント型カメラ・オブスクラの中で描いた構図を鏡写しにして描いた」か
「部屋が作品と逆の「右側に窓のある部屋」だった」ことになる。
これらはフェルメールに関する記録と矛盾するか、あまりに面倒くさい手順を要する。

 またステッドマンは「彼(フェルメール)がカメラ・オブスクラの像をじっくりと観察し、小部屋(テント型カメラ・オブスクラ)の中で柄の具を塗ったということも考えられる作品」(ステッドマン『フェルメールのカメラ』P.149)とまで言っているが、さすがにそれは言い過ぎだと思う。

 なぜならフェルメールの時代のレンズの映像は現代の写真用レンズの映像と比べてあまりに不明瞭だ。最近「ぐるぐるボケ」とか「古典レンズ」といって古いレンズの(不完全な)描写をあえて楽しむ傾向があるが、フェルメールの時代のレンズはそうした古い写真用レンズよりもさらに不明瞭な映像だった。それは構図や配色の検討にはなっただろうが、下描きはともかく油彩画を直接描けたとは考えにくい。

 まして小部屋型カメラ・オブスクラでも写真用カメラでも、カメラの映像は上下左右逆転(180°回転)している。プロカメラマンであってもそこから写真の最終形を想像しつつ構図を調整するのはかなり難しい。
 写真を撮るにも一苦労な180°回転した映像をフェルメールが直接油彩にペインティングしたと考えるのはさすがに無理があるように思う。

 たとえば≪音楽のレッスン≫を例にとり、作品の構成(窓が左側にある部屋)を実際の部屋の構成とするなら、写真用カメラやテント型カメラ・オブスクラで見た映像は次のようになる。

フェルメール≪音楽のレッスン≫
≪音楽のレッスン≫の部屋を写真用カメラで見た場合
(180°回転している)
≪音楽のレッスン≫の部屋をテント型カメラ・オブスクラでみた場合。
(180°回転し、さらに鏡写しになっている)

上記のことから私はフェルメールがカメラ・オブスクラを使用した可能性について「歴史的記述と科学的検証から十分可能性がある」と思う一方で、「カメラ・オブスクラの使用があったとしても構図や配色の検討、下描きまでにとどまる」と考えている。

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