見出し画像

210310 もうきのふぼく


「盲亀の浮木」が読めなかった。
もうきのふぼく、と読むらしい。
 
100年に一度海面に顔を出す亀が、大海原を漂う穴の開いた木に頭を入れる確率はいかほどか。転じて、めったに訪れない出会い、という意味らしい。

読めなかったものが読めるようになると嬉しい。
知らなかったことを知るのは嬉しい。
出来るようになることは嬉しい。
ただしそれを共有するのは難しい。


先日上司から「お前の知識や語彙は片寄っているし普通の人は知らない」「お前の話を面白いと思って聞いてる人間はこの会社に一人もいない」と言われた。

もしこれが、話し方が拙いことを指すなら本当にその通りで、会話の組み立てが下手で相槌のタイミングを間違えることは多く、好きな物事の話ほど熱が入って相手との温度差が広がるのを感じることがある。
ただし当時の上司との会話の文脈では、話の内容が面白くないという意味だった。
たかだか10人程度の小さい会社でぴったり趣味のあう人がいるとは思っていないし、そもそも上司の話を面白いと思った回数も入社から5年で数えられるくらいのものなので、そうですか、と答えておいた。

私が面白いと思ったものは私が面白いと思っているのだから、わざわざ「面白くない」と言及するほうが面白味に欠けましてよ。と心のお嬢様の部分が言っている。

たぶん上司は、本気で自分のことを面白いと思っていて、なまじ周りに同じ温度感の人が多く一緒になって盛り上がってくれているので気付かないんだろうけど、奇声を発したり同じことを繰り返し言い続けたり変な顔をするなどといったような「面白さ」を誇りにしているのは小学生などと変わりない。不惑を超えてその感受性を更新出来ていないのはいかがなものか。それはInterestingでもFunnyでもなくCrazyなんですよ。と私の中の部下の部分が言っている。


可能なら、知識や経験や技術に裏付けされたものを多く脳に取り入れたい。少しでも気になって調べて知識を得れば、思考の中間地点が増える。経験や技術を持った人たちの作品に気付くことが出来る。

盲亀の浮木、優曇華の花の咲きたるを待ちたること久し、ここで会ったが百年目。
面と向かって嫌がった上司にはお互いのためにもう話しませんが、素敵なものに興味を持つことが出来るのはこれまで素敵な出会いがあったおかげだと思っているので、面白いものを探すのも好きになるのも話すのもやめません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?