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200913 ごきげんのつくりかた


むっっっっっずかしいんですよね。
毎日ごきげんでいるのって。

他人との関わりのなかで「ごきげん」を見出だしたり作り出したりするのはほんとうに骨の折れる作業で、ここで骨折どうのと言い出さない人は他人との距離を自然に適切に保ちながら生きていけるんだろうけど、そんな器用なことは逆立ちしたって私にはできないし、なんなら逆立ちしてうまく生きられるようになるなら一生逆立ちのまま過ごすわ。
頭に血がのぼりがちになるだろうけど。


振り返ると、これまでの人生においては「ごきげんをつくる」ことよりもむしろ「不愉快を避ける」ことに重点をおいてきた。

今もそうだけど、嫌なことを言ってくる人へはマニュアル対応でしか動かない。嫌いな人の前で口角をあげるのは、人前では化粧をするということと変わらない。嫌なものなんかどれだけ避けたって湧いて出てくるんだから、そりゃ避けるためにだろうと嫌なものを直視してたらしんどくもなるよな。
でもどうだろうな。
意識して嫌いなものを避けるというのは、意識して嫌いなものを見つけにかかるというのとほとんど同義だから、せっかくいいことが転がっていても、転がっている ことのほうに目が行くかもしれない。
湧いて出てくると思っていたけど、そういう目を持っているだけかもしれない。

目と言えば、好きな人を見るときって、興奮して瞳孔が開くから、実は普段よりも見えづらくなっているらしい。だから慣れて興奮がおさまると、はじめのころに感じていたひたすらの魅力以外が見えてきて…となる。
恋は盲目というのは身体的に正しい。

つまり、
意識して嫌なものを見ているけど、嫌なものを見ていると疲れるけど、素敵なものを見てご機嫌でいたいけど、ご機嫌を作るのって難しいけど、ご機嫌でいないとうまくいかない。
ということ。

常にごきげんでいるのは難しいけど、ふとした時間を楽しくさせることはできる。私に必要なのは想像力だった。
想像力に打ち負けることもあるし、打ちのめされることもあるんだけど、基本的には脳みそが味方だと思っている節がある。
そうかなるほどな、脳みそがバグっているときも妄信的に信頼をしているから、ギャップで狂いそうになるんだな。
想像力ってつまり内側のことで、これまでに経験してきたことでしか生成できない。映画を見た後にみる夢はかなりアクロバティックでバイオレンスでハートフルだし、学生のころ夢の中でも毎日学校に行っていたことすらある。

想像を越えるために他人と接触しようにも、体力が無いんだよな。
脳には他人と過ごすだけで消耗する部分があって、ひとりの時間と引き換えにしなければ回復しない。一生懸命勉強したり、集中して作業をしたり、風邪のときに仕事をしたりすると、どっと疲れてよく眠れるけど、あの感覚を濃縮還元で毎日摂取している。

だから私の今のひとまずの目標は、ストレスの少ない他人との接触を目指すことで、最終目標は日々をごきげんにすごすこと。

ひとまずの目標ですら3ヶ月経っても達成できなくて渋いけど、それでも人間を続けていかねばならない。
きばってこうね。
きばらなくてもいいようになりたいね。
おやすみ。

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