見出し画像

噴飯ものについて考えた

噴飯ものという言葉が苦手だ。

物事が可笑しく、思わず口から飯を吹き出してしまうほどに爆笑する様らしい。最初は表現として面白いと思ったが、よくよく考えていたらあまり好きでは無いと気がついた。

まずこの言葉が使われるシチュエーションは「何か」もしくは「誰か」を馬鹿にした表現として使われる事が多い気がする。

大前提として僕は何かを馬鹿にするのがあまり好きでは無い。何かを馬鹿にするという事は、自分がその対象よりも優れているという考えがあるからだ。そういった考えが出るという事に、自分の意見が絶対的に正しく、他者が言っている事は間違っているという決めつけを感じる。

そして何よりも行為としての噴飯に抵抗感がある。

とてもガサツだと感じてしまうからだ。いくら面白い事があったとしても意図せず口から飯を噴出するほど笑ってしまうものだろうか。少なくとも僕にはそんな経験が無い。基本的に口から飯が出てしまうという事は常に口を大きく開けて食物を咀嚼しているという事だろう。

食事中にも関わらず口を大きく開けて喋り、口から飯粒をぽっろぽろとこぼしている大柄な男の姿が想像できる。

大概そういった男はリアクションが過剰だったりする。些細なことに声を荒げ、ちゃぶ台をその大きな拳で叩き、膳の上に乗っていた味噌汁はペシャリとこぼれる。こちらが何かを言うとすぐに大きな声を出し、その声に驚いた赤ん坊は泣き出し、部屋の隅で寝ていた飼い猫はそそくさと別の部屋へ去ってしまう。

そんな調子なのでこの男は簡単に人のことを馬鹿にし大笑いをする。嘲笑の意味も込めて口から勢いよく飯を噴出するのだろう。

全てイメージではあるのだが文章でよく見かける「噴飯ものだ」という強い言い切りから、このような男性像を思い浮かべてしまい、あぁ苦手だな。と感じる。

そもそも口からものを出すという行為が好きでは無い。

小学生の頃、給食の時間に牛乳を飲んでいるクラスメイトを笑わせて噴きださせるという遊びが流行った。これは多くの人が経験があるのでは無いだろうか。

僕が何よりも嫌だったのが、これが牛乳だったという点だ。牛乳の匂いがただでさえ苦手なのに、噴き出した先にあるテーブルクロス、悲惨な場合には洋服、それを拭き取る雑巾も臭くなる。

しかもその被害は噴き出した子供だけではなく、周りにいる子供たちにすら及ぶ。その一帯には臭いが残り午後の授業もままならない。

牛はそんな事の為に乳を絞られている訳ではない。

さらに悪質なのは笑わせた子供以上に、本来被害者であるはずの笑いを堪えきれなかった子供が加害者のような立場に陥ってしまう点だ。

我慢できなかったお前が悪い。あんな程度で笑うなんて笑いの沸点が低い。口々に責め立てられ気づけば自分が悪かったのだと思い込まされる。非常に悪質な構造が出来上がっている。

そして笑わせる事に成功して調子に乗った子供は次なるターゲットを笑わせようと別の席へ行き、またおどける。こんなものは連続通り魔だ。

こういった子供は大概がお調子者なので些細な事に対してリアクションが大きい。いずれ噴飯するような大人へと成長するのだろう。

そろそろ自分が何を書いているのかよく分からなくなってきた。ただ何となくぐるぐると回るだけでなかなか核心にたどり着かない構造、稚拙な言葉選び、全くどこを取っても未熟さしか見えてこない文章。そもそも意味のない内容。

こんなものをわざわざnoteに記事として書こうなんて、全くもって噴飯ものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?