なかたつさんに初めてコラボした話

昨日なかたつさんと3時間くらい話した。

かれこれ、3年くらい付き合ってきた中ではあるが、なかたつさんの話を聞いた事があっただろうかと思うとなかったと思う。

それは、なんでそうだったのかというと、あのインタビューを経て思うのは、俺はなかたつさんに対して関心を持っていたのではなく、嫉妬心を持っていただけであって、なかたつさんを百均を承認してくれる存在や、話を聞いてくれる、付き合ってくれる存在としてしか見ていなかったなという結論に近い。

昨日はナラティブという行為について一冊の本を手掛かりに話始めた。

この本は、ナラティブという議論がどういう形で起きて、それがどういう形で色々な分野の中で扱われて、それが扱われすぎてよくわからなくなってしまった現在において、再度ナラティブとは何かというのを実際にナラティブの現場において実践した研究者たちの論文をかき集めた論文集である。

ただ、書いてある内容自体は容易なものもおおく、難しい言葉で書かれているケースもあるが、おおむね読み物として面白い論文が多い。という訳で入門書としては割とお勧めしたい。

その内容については下記放送の中で簡単に触れているので、よかったら聞いてください。

問題はここからである。ナラティブというのは、言って仕舞えば、物語るという行為の事なのである。何の話かというのはさておき、ナラティブってカタカナ語は訳が分からないので、言って仕舞えば実演をする事によって、そのいみを体験してもらおうとしたのか2枠目の放送だった。

ナラティブは語りの英語訳である。語るとはどういう行為なのか。それについて詩と物語の関係性から大学院時代より研究しているなかたつさんのルーツをインタビュー形式で語っていただく、その聞き手として百均がなかたつさんにインタビューしていくことによって、ナラティブを理解しようとするという行為をツイキャス上で実践しようとした訳である。

という訳で、2枠目の放送の中が始まってから百均は聞き手として、なかたつさんにインタビューする事によって、なかたつさんを語りてとして配置し、なかたつさんに無理矢理かもしれないが、語って貰った訳である。

その結果は、実は3枠目と4枠目として展開していく訳だが、その内容はここに公開しない。それはなぜかというと、ツイキャスという現場において、この長時間の話を最後まで聞いてくれた人との関係性の上にしか成り立たない内容だからだ。という訳で、あんまりここで語るべき事というのはないかもしれない。

とはいえ、だ、ここでもう一度書いておく事というのは、これはどこまでいってもしょうがないのだが、自分のためとして書く必要があるので描く事にする。

なかたつさんとは数年来の付き合いになる。僕が大学生の頃に、B-reviewの運営の末端に加わり、大して何も出来ていなかったときに、なかたつさんというレッサーがBreview上で熱心にレスを書いているのをみて、自分から声をかけて知り合った。それから僕がネット詩から離れても未だに、付き合いがあるという人はいなくはないけれど、この距離感で未だに話している唯一の存在であってもいい。

一緒にパフォーマンスをしたり、京都の詩人が主催した回に言ったり、ツイキャス上で色々な活動をしたり、それら全てを投げ出してまた戻ってきても、一緒に付き合ってくれるのはなかたつさんであり、あるいみネット上の詩という媒体上で友達と言ってしまっていいだろう。といえるのは彼だけだろうと思う。

だというのに、なかたつさんの事を知ろうとした事はなかったのである。

俺は「あなた」とコラボすることで、「あなた」になっていけるかどうかってことです。
「作品」は「作者」がいるからうまれます。「作者」は「あなた」です。「作品」を読むということは、自分の日記を読むことではありません。他人の人生が書かれているものです。そこで、重ね合わせるも、照らし合わせるも、同意するも、拒否するも、写し鏡のように跳ね返ってくるものがあれば、それは、「あなた」の話を聞いて、「あなた」になれることもあるのかもしれないですね。

なかたつさんは優れたレッサーだと思う。しかし、その優れているという事は実際に体験した人ではないとわからないだろう。どこが優れているのかというのは、引用した一文の中に溢れていて、それはあなたになろうとしている、つまり、あなたの語りを聞ける人である。逆に言うと自分の語りは展開しない。それはあなたの語りを開く人であるが、なかたつさんは自分の語りを開かない人だ。それは自分の目的のためにしてはいけない行為でもあるかもしれないし、それをする人がいなかったという事かもしれない。

ざっとなかたつさんとの付き合いというのを書いてみた時、いつも主語は百均が何をして、その振る舞いになかたつさんがどこまでも付き合ってくれたという結果がすべてだなという事に気がついたのはその放送の中だった。そして、その付き合わせた結果なかたつさんに僕が求めていたのは、褒めてほしいという承認欲求だった。正に書いていてやばいがしょうがない。俺はなかたつさんに話を聞いてもらってそれに気が付いてしまった。気が付かされたという事がなかたつさんの優れた聞き手としての能力であるのだが、しかし、それは同時にこの放送の中で、百均はまたなかたつさんから語りを引き出す事ができなかったという話になる。

人の話を聞くというのは、語りの構造の中でこう定義する事ができる。語る人と聞く人の構図の内、聞く人に徹するという事だ。聞く人のマインドというのは、語り手が語る事によって、物語を紡げるようにアシストする事に他ならない。そして、そのアシストをするために必要な態度がある。相手に信頼してもらう事だ。

信頼していない相手に何を話したくなるだろうか。信頼していない人に大事な話をしたい人間がいるだろうか。たわいもない天気の話から全てが始まるのは話者の間に関係値がないからだ。ない所からとっかかりを見つけて、そこから共通項を見つけていくことで、会話を紡いでいく。その中で序所にお互いのパーソナリティを理解し、信頼しながら、お互いの中にあるセンシティブな思いや秘匿してきた感情や、言語化しにくいもやもやした心の傷を吐き出すことができるのだ。

という立場にたって考えた時、なかたつさんは百均の行動に最後まで付き合ってくれた訳だ。それはこのnote記事の中にある活動の全てになかたつさんが関わってくれている事が証明している。ここにある活動はなかたつさんが始めた物語ではなく、百均が始めた物語なのだ。

その物語に付き合ってくれる聞き手であった。

だから、あくまでも百均となかたつの関係値というのは語り手としての百均と、聞き手としてのなかたつさんという構図から抜け出せるものではなかったし、実際に百均はそこから抜け出せなかった事はなかった。

百均は、そこから抜け出したいというフラストレーションを抱えていて、なかたつさんの信頼を傷つけていたという事もこの放送をするまできがつかなかったのである。それは、この放送をする前に一回ディスコードの詩作品の読みあいの回で、なかたつさんが珍しく自分の中の読み(語り)を展開していた時に、自分の語りを分析的に聴いてくるなかたつさんに対しての怒りをぶつけてしまい、その語りを遮った事があった。その時百均はいつもと違って俺はなかたつさんに一泡吹かすことができたと自慢気だったのだが、しかし、その行動が深くなかたつさんの事を傷つけていた事をしらなかったのだ。

なぜ傷つけたのか。今なら少しだけ分かる。今まで聞き手として活動してきたなかたつさんが自分の語りを俺の私情によって遮った行為というのは、なかたつさんが語ろうとした機会を奪った訳である。何が抜け出したいのだろう。何が嫉妬心を抱えていてなかたつさん(他人)になるのだろう。という事になぜ気がつなかったのだろう。

という事をなかたつさんにインタビューすること、つまり、無理やり語らせることによって俺の認識の拙さが露呈してしまったのである。正に語るに落ちている訳でなさけない話だ。


ナラティブとは何かというのをなかたつさんは簡単にこう定義する。物語る(動詞)と物語(名詞)だ。人が何かを語る時、そこには最初から用意された物語があるように思ってしまう。それは、過去あった出来事をそのままあったままに語っているような感覚に近しい。昨日遊園地に行って観覧車に乗ったという言葉を使うとき、それは昨日あった出来事をそのまま語っているじゃないかと言えてしまうような気がしてしまう。しかしそうではないのである。その人が昨日あった出来事の内、おそらく一番記憶・関心に残った出来事の象徴として遊園地や観覧車という言葉が出てきたのだ。例えば道中の話が楽しかったら、その話題が上がるはずだ。たとえば、アイスクリームを落として悲しかったのであれば、そのエピソードが語られるハズなのである。そして過去事体の事を全て語っているのであれば、それらのエピソードを余すことなく話すハズなのだ。しかしそうではないのである。

なかたつさんに対して僕は何も知らない。それは、こういった語りを一切きいてこなかった事が、なかたつさんが何を自分に語ったのか、どういう時間を過ごしてきたのか、瞬時に答える事ができなかったという事実が全てを指している。人が人に信頼され、いい聞き手になるためにはその人に対して興味関心を持ち、あるいは語らせる事によって、その人がどういう事に興味関心や、あるいは思想や、意識を持っているか・・・それは明示される言葉そのもの以外の要素も含めて、だ。その全ての行為を経て知る事ができる。その知った姿を何度も何度も聞く事によってその精度は上がったり下がったり、逆転したりしながら信頼度を築き上げていく。その過程を俺はしていた。こういった放送を過ごす中で、感情を振りかざし、作品を読む過程において、自分の物語をぶつけてきた。だから、俺はなかたつさんを信頼しているのである。自分の興味関心に付き合ってくれるからだ。

だが、俺はなかたつさんに信頼されているのだろうか?

それに至る行動をしてきたのだろうか?

してこなかったのである。その初めての行動を行ったのか昨日のキャスなのだ。

つまり、インタビューなのである。

インタビューをするという事はどういう事なのか。

それはインタビューする事によって、その人に興味関心を持つはじまりの場所であると同時に、その人に聞き手が信頼してもらうための大事な場所なのである。

いきなりその人に関心を持つことは難しい。難しいから、色々な世界に溢れる情報は、数字による知名度や肩書をあつめて経歴によって判断しやすいように作っている。それはその人の事を信頼するための装置としてある程度優秀かもしれないが、しかし、それは話し手に信頼されるために重要な情報ではない。ただのきっかけにすぎない。そのきっかけ全てをもってその人を知った事にはならない。なのに、知った気になってしまう。

インタビューという場はそれらの情報を払拭する為の場所だ。なかたつさんは大学院で詩を学んでいて、飯島耕一が好き、レスはなんかすごい、色々な作者から絶賛されている、詩と思想にも記事が載る、賞もとっている、本も凄く読んでいる。音楽やってる。そういった外部的な情報だけで俺はなかたつさんを理解した気になっていた。しかし、そういった情報はなかたつさんが語った訳ではないのだ。

なかたつさんは俺に対して色々と偶に断片的に物語ってくれていた。その情報を無視して、上っ面の情報で人を判断していたのは俺である。そして、インタビューをする事によって、それが違っていた事に気が付いた。それは、無理やりにでもインタビューという形式を通じて、俺が自分の弱い部分を開示して、あるみ正直に胸の裡を開示し、その開示に引きずられて語ってくれたからである。そういう意味ではなかたつさんと話した時間の中で、俺は信頼された聞き手ではなかったように思う。無理矢理話に付き合ってくれた結果、結果的に語りてになり、物語る事をしてくれたという事だ。

なかたつさんの言っている事が少しだけ分かったと思うようになれたのはこのインタビューを通じて初めてだった。それは、言って仕舞えば、なかたつさんの話を僕は聞いた事がなかったという事である。

この記事を書いてから突発的に色々な本を手に取り、自分の発言を読み返し、なかたつさんが送ってくれた論文を読んでいった。そこから見える景色が変わってしまい、それからツイキャスを何度も突発的に実施したのだが、そこでの自分の語りというのは変化したと思う。

話すことと聞く事というのは、主従の関係で終わってしまっては先に進まないのだ。先に進む事は先進的なという意味ではない、関係性を深めていく上において、それは相互理解、という極めてシンプルな一言をどう実践していくのか、それにかかっている。

その意味を字ずらの効果で片づけるのではなく、実践していくこと、相手の話をを聞き、自分の語りとして再度語りなおしていくこと。その繰り返しの果てに、ちっぽけな百均という認識が変化していく。それが、与えられた側の百均が今度は聞き手のなかたつさんに作用していくことでこの場は形成され、継続していく。それが、このインタビューという場を続けていくのである。

というか、そんな感じでこれからやっていきますのでよろしくお願いいたします。

色々ボロボロですんません。

 







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