血脈というものについて

 先日、父が90歳の誕生日を皆に祝ってほしいというので、子どもら(といっても55歳から60歳のあいだの)が集まった。そして、
「ちょっと、ここに(モギョモギョ)」
と言った。パーキンソン病を発症して以来、父の発音は不明瞭で、声も小さく何を言っているか分からない。何度か聞きなおして、ようやく、こたつの周りにみんなを呼び集めたいのだと分かる。兄妹3人が集まると、その封筒を取ってくれ、と書類棚を指さす。A4判の茶封筒を受け取ると、なかから数枚の紙を取り出した。そこには、大工をしていた父が設計図を引いていた時を思い出させる、角ばった手書きの文字で、数人の名前が書かれていた。書かれた名前はあまり多くない。間隔をあけて縦横にいくつかの名前が並び、その間を真っすぐの線が結んでいる。
 家系図だった。
「**家は、この定吉さんからはじまったんだな」
 父はおもむろに説明を始めた。初代の定吉さんが、**さんと結婚し、何々が生まれ、その子供に、ヨネおばあちゃんとセイおばあちゃんの姉妹が生まれた。ヨネおばあちゃんには子供ができず、父が養子に入った。そして、父の名前の隣に書かれた母の名前を結ぶ線と垂直に伸びたさきに、我々きょうだいの名前が3つ並んでいる。そこまでたどるのは、あっというまだった。
「俺が4代目で、豊が5代目になるんだな」
「なんで突然?」
と茶化すように姉が言っても、父は動じることなく、
「みんな、これをもっていなさい」
といって、その紙をこどもらに一枚ずつ配った。残った1枚を父は、大切そうに原紙とともに封筒に戻した。家の裏にあるセブンイレブンの広い駐車場をよろよろと横切って、店内でコピーをして帰ってきたんだな、と思った。
「5代目っていってもねぇ。おじちゃん、由佳ちゃんたちで、**家はおわりだよ」
 ささやかな家系図が描かれた紙を、兄はぞんざいに折り畳みながら言う。家系図の一番下には、兄と兄嫁をつなぐ線から伸びた二人の姉妹の名が書かれている。そこに男子はいない。つまり、この血をつなぎ、岩渕を名乗るものはいなくなるのだ。
 父は腰を丸めたままで、兄の方を振りむくこともなく黙って封筒を書類棚に戻した。私はその表情を見なかった。だから、わからない。4代目で子供がいなかった夫婦の養子となった父が、何を思って家系図を書こうとしたのか、90歳を超えて○○家が失われていくことをどう感じているのか。

 人が死んだらどうなるのか。それは、多くの人と同じように私もずっと疑問に思ってきたことだった。これまで、自らの五感をたよりに何か洞察を得ようとしても、大した成果は得られなかった。自分の肉体は、何十年もいっしょに過ごしてきたはずなのにそれほどの愛着もなく、そのせいか、「生きてるぅ」と血肉わき踊るような感覚にもほとんど縁がない。普通の人が人生を生きるときのリアリティが、食パン8枚切りぐらいの厚さだとしたら、私は、サンドイッチ用の12枚切りぐらいしかないのではないかと、常々おもってきたぐらいなのだ。に長年暮らしてきたからかもしれない。
 自分が死んだら、それこそ千の風になって、意識ごと散り散りになってしまうような気がする。でももしかしたら、このなかなか想い通りにいかない鈍重な肉体を離れれば爽快な本来の自分を取り戻せるのかもしれないという気もする。

 でもそれらは全て、私がいま頭の中で思うだけのことだ。何が本当か、全てが嘘やまぼろしなのか、何一つ確信をもって言えることはないのだ。
 それでも、自分のささやかな人生が本当にちっぽけで平凡で、特筆すべき点が見当たらないということだけは、わかる。行き当たりばったりに職業を選び、耐えがたいほどの不満を持たずに生活を維持できる程度にお金を稼いできた人生で、大きな失敗もない代わりに、記憶に残る成果もチャレンジもしてこなかった。そんな私がこの世に生まれた意味は何なんだろうと、今さらながら思ったりする。

 父は、きっと私よりはずっとましだ。9人も子供がいる大家族に生まれ、小学校の頃に遠い親戚の家に養子に出された。行った先では、たった一人の子どもとして大切に育てられ、以前は兄妹と先を争い勝ち抜かないと手に入らないような甘いお饅頭も食べ放題だった。豊富に摂取できた栄養を糧にすくすく育ち、農作業に精を出した。真面目に働き所帯を持って、子どもができてからは、親方に弟子入りし大工になった。そして、生涯で何軒かの家を建てた。稼いだお金で土地を買っては田んぼを増やし、数件の貸家やアパートも持つまでになった。父は、自らの勤勉さと才覚で人生を切り開いた。その自らの人生のあらましを振り返り、何を思っているのだろう。

 血脈は、途絶える。確実に。
 わたしたち、ふがいない子どもたちによって。
 それを確認するためにあるような家系図を、父は後生大事にしまった。そして、言葉にならない吐息のように、よっこらしょを口から吐き出し立ち上がる。彼が行く先は分かる。南向きに開けはなたれた玄関を出て、家の裏にある畑に向かうのだ。春を迎え、また何か新しい作物が植わるのを待っている土のところへと。

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