なぜ私はシータを学ぼうと思ったか

去年の11月に、はじめてシータのセッションを受けた。その発端は、自分の中にある狭い箱壊しをしたかったから。目的は、父親殺し(社会的にこうあらねばならないとする、義務感とかから解き放たれること)だったのだけれど、目前の現象としては、やりたくない仕事から足を洗うことが目標だった。

やりたくない仕事が何かを詳しくは述べないけれど、もう何年もやってきて、それ以上続ける魅力を感じない仕事だ。しかも、年々型にはめられる感覚が強くなってきている。そして何より問題は、そこで私は自分を欺いているということだ。その場で私は自分の意見ではないことを言う。そのたびに、心の中に小さなさざ波が起きて、おぞけ立つような不快さに顔を顰める。

そんな仕事から足を洗いたいと、ずーっと願っていたのにやめられなかった。なぜ?と考えながらセッションをしたら、その理由は解消された。にもかかわらず、いま辞められていないのは、辞められない内面的な理由は無くなっても、対外的に話す理由がないのだ。それはつまり、辞めたのちどうしたいかが見つかっていない、ということでもある。

そこで、辞めた後どうしたいかを見つけるために私はシータを学びに行くことにした。どうしたいかが見つかれば、何で辞めたいんですか?と聞かれた時にも、「ええ、○○をしたいんです」と言えるではないか。

今、私がたどってきた道は、行き止まりになっている。気づいたら袋小路にいて、何で私はこんなところに?とアタマを捻っている。右も左も壁ばかりえ行き場がないと思っていたけれど、上を見たら、遮るもののない空間が広がっていた。だから今度は、そらに飛び立つことにした。ふわりとジャンプして上昇していく。その先どこに富んでいくかは分からないけれど、ひとまずシータを学んでみよう。

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