母の日

 近所のカフェで、トイレに行こうとてくてく廊下を歩いていたら、母の日に贈る花の予約を促すポスターを見た。まだ2月なのにずいぶん早いなー。そんなに急がなくても大丈夫でしょ、と思いながら通り過ぎて、ふと気づいた。
 そうだ、もう母はいないんだ。
 そういえば、つい先日も、同じことを思っていた。2月22日。いまや猫の日として定着したその日は、母の誕生日でもある。条件反射的に、電話をかけようとして、相手はこの世にもういないことに気づいた。
 人が亡くなるとは、こういうことなのかと思う。日々の生活の中で、自分のなかで特別だった日付や催しが、意味のない空虚なものに変わる。心の中にふっと湧き上がる華やぎが、霞みのように薄くかき消えていく。

 今年の2月22日は、何もしなかった。ただ、胸の内には白い空洞が小さく口を開けていた。実家の近くに住んでいれば、お墓参りをしたり、お仏壇にお線香をあげるんだろうなぁと思う。それでもいいんだけど、でも何かが、違うのだ。よく分からないけれど、そういうことを母は望んでいないような気がするのだ。

 死んだ母は、いまどうしているんだろう、母からのメッセージは何かないだろうか、そう思って、できもしない水晶透視をしてみた。ほとんど何も見えなかったし、見る前からメッセージなんてないんだろうなと思っていた。死んでなお、何かを言い残すような人じゃないのだ、彼女は。潔くこの世に別れを告げて振り返りもしないだろう。
 それでも、何度か夢で逢えないかと試みて、一度だけ、夢に出てきてくれたことがある。そこはどこかの路上で、ザーザー雨が降っていて、傘を差した母が駆け寄ってきて、何かを言ってすぐにいなくなった。そんな夢。

 これから、母の誕生日は、そういう母を思い出して、言葉にできない胸の痛みに空を仰ぐ日になる。
 そしてこれから、母の日は、母がいない人の、母を亡くした人の、消え去った誰かを祭壇に仰ぐ人の、思いに心を寄せる日にしよう。
 

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