好きな季節をしつこく書いている
梅雨が明け、真夏到来。沖縄県那覇市は史上最高気温の36度を記録したそうだ。関東も酷暑になるらしい。
夏は好きな季節だ。いつも夏の物語を書いているような気がする。調べたら、自分の小説の近10作の内、6作が夏の話だった。これは特に以外ではない。まあ、自分ならそうなるだろうなあ、という感じ。
夏が他の季節よりも物語を作りやすいということは、ないと思う。春、秋、冬にもそれぞれ物語のとっかかりになるものはあるはずだし、好きな季節も人によるだろう。あるいは様々な文化によってツボとなる季節は違ったりするのだろうか。なんとなく日本は夏が好きな気がする。もっとも特に裏づけになる統計はない。
一緒に同人誌を立ち上げ、自分のことをよく知っているHさんは、「こがわさんの作品は筋だけを読むと浪花節と言ってもいいくらいベタなのに、書きかたが臭くないからサッパリしている」と評され、それが自分でも納得のいく評論だったので「サッパリ味の浪花節」を標榜している(思えばこう評してくれたHさんと出会ったのも8月で、その出会いは印象に残っている)。
さて、夏のなにがいいか。これは「好きなものを後出しで解説する」というかなり無茶なことなのでなんとも言いようがない。
自分の場合、特に「夏を書いてやろう」という意識がなかったわけだが、もっとも感傷的なのは夏だという気持ちはあった。同人会のサイトウケンゴくんに勧められて読んだ大橋裕之『太郎は水になりたかった』でも、主人公たちは「夏の良さ」について語っている。その感性が自分にはとてもよくわかる。
少年時代、6月に兄と妹の誕生日があり、7月に父と母の誕生日を迎えてから梅雨が明けて自分の夏が始まる。しかしその感覚は年々と変化していき、30歳手前の頃には冷房を点けるのが5月頃になって、自分の夏の始まりは5月頃という感覚が強くなった。自分にとって、夏とは「冷房が作った人工的な空気」が大きい。一方で外はなんとなく、なにもかもがくたびれて、物事の輪郭がなくなってしまうような心地の良い空気に惹きつけられる。日曜教会の後に食べるアイスやスイカが美味しかった思い出もあった。
身体の弱い人は夏や冬を乗り切るのが難しいと聞く。確かに母は免疫の疾患があったので夏は雑菌が繁殖して病院に運ばれることもあった。
「そろそろ夏にやれることもなくなってきたな……」という頃に甲子園大会が始まるのもまた良かった。ここから再び「夏を楽しくすごしてやるぞ!」という気持ちになってくる。特に引っ越しの準備をしながら観ていた松坂大輔擁する横浜高校の春夏連覇があった1998年大会は印象に残っていて、自分の小説の主人公たちにもこの1998年の夏を味わってほしくて1998年の夏はしつこく書いている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?