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『悪は存在しない』(ネタバレ) 水≒鹿≒〇
雑感
絵の緊張感が常に一定に保たれていて、カメラの動きと人物の動きがスムーズにつながり、動き、物音、編集のリズムが有機的に流れる。
大きな川のような堂々たる時間の流れを感じさせる傑作でした。
走る車の後部からのショット、闇の中複雑な星形に光るヘッドライト、中盤の車内でのバックミラー、夕闇の中コマ落ち風になるショットなど、興味深いショットが随所にあり、飽きませんでした。
説明会
私も住民説明会を受けたことがありますが、本作の住民説明会はとてもリアルで良かったです。
多くの住民は最前列を避けて座り、威勢の良い人物だけが最前列に座っているところなどはあるあるでした。
そして一人一人の役者の表情が素晴らしかったです。特に峯村佐知の思いつめた顔がリアルで最高でした。
企業側の高橋のマイクの音量の絶妙な不快さも素晴らしかったです。
企業側の答えは事前から決まっていて、動きだしたら止まらないマシンであるところもリアルでした。
色彩設計
最初はサイレントになる予定だったと聞いて素直に納得できるほど、本作は絵が雄弁でした。
青を基調とした美しい自然の中、外来の異物は赤やオレンジで設計されています。
土地に深く根差した生活をしている巧は濃紺で、花は水色です。一方、機械は赤で、高橋のジャケットは赤に近いオレンジです。
青と赤を使い分け、土地への親和性や有害性を表しています。
高橋の衣装がオレンジから、青と赤の混じった紫になったり、またオレンジに戻ったりすることで高橋の心の揺れや、有害性の変化を表しています。
翻って、辞職を胸に村へ再来した黛の衣装は、白と青いジーンズで村の色彩になじんでいます。
水
本作は至る所に水が登場します。
雪や水蒸気も水ですし、そもそもグランピング計画の最大の問題点は水です。
巧は説明会でちゃんと話ができるならば手助けすると、条件付きで協力を申し出ました。
しかし、持ち帰って戻ってきた企業人二人は、浄化槽の問題を置き去りにし、自分がどう生きるべきかという自身の実存的な問題にご執心になってしまっていました。
これでは巧の出した条件を満たしていません。
火事は定期的に起こるものですが、水の汚染は前代未聞でしょう。
計画通りの浄化槽では村の水が汚染されることが確定的です。
その下流にはあの美しい鹿の水飲み場もあります。
鹿
西部を舞台にしたアメリカ映画が、よく馬にその土地の自然を象徴させるがように、本作では鹿にこの土地の自然を象徴させています。
ラストの日没後でも明るい超現実的な舞台と、鹿に失われゆく自然を象徴させる点、自然と文明との対比で、『もののけ姫』(監督:宮崎駿)を思い出しました。
本作での自然を象徴する鹿は、上位に君臨するものではなく、下流にて人間に損を押し付けられる位置に追いやられている存在です。
この構造は、上下が逆転したようなオープニング映像と呼応します。
鹿の行方など知らないという台詞は、町の自然への敬意の欠如を端的に表しています。
うどんの感想も水(=町の自然)への敬意に欠いていました。
だから、運転席の闇の中で、巧は決意したのでしょう。
花
他の人物と同じショットに収まっているが、なんともおさまりが悪い場面が多く、どことなく実在感の薄い花。
花が直接会話をした人物は、巧と区長だけです。
他の人物とは会話をしません。
花が実在していなかったとまでは言いませんが、象徴性の強いキャラクターではあると思います。
花はこの町の自然の象徴ではないでしょうか。
花が食事を口にするシーンはないが、他の人物に食事や資源を与えるシーンはあります。
これはこの町の自然と人間との非対称的な関係を表しています。
注意:次段『パワー・オブ・ザ・ドッグ』の核心に言及しています。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』(監督:ジェーン・カンピオン)では、(私の理解では)土地から離れ教養を身につけた、土地を客観視できるものだけが犬(田舎の地域性)をみることができました。
込められた意味は大きく違いますが、本作も、花との距離感で地元の自然との親和性を表していると思います。
巧と区長だけ、花と会話できるのは、彼らが地元の自然への造詣が深く、古くから地元に根差した生活をしていて、町の自然との親和性が抜きんでて高いからでしょう。
水≒鹿≒花
それぞれこの町の自然を象徴しています。
ひょこっとフレームに入ってくる花の初登場シーンは、まるで鹿のような動きをしています。
花の衣装の水色はそのまま水を表す色でもあります。
花と鹿、または花と水は似た意味をもった存在だと示しています。
花と鹿や水との違いを明確にすると、花はこの町の人間の自然に対する敬愛の念を体現していると思います。
花は人間の思いであり、鹿や水は自然そのものです。
花が、町人たちの後方(屋外)からグランピング計画の説明会を見守っている様子は、町人たちの中に湧き上がる自然への思いを表しているのでしょう。
水と鹿との違いはよく分かりませんでした。
本作は、自然そのものと自然と共に暮らす人間たちを「=」で結んでいません。
私が面白いと思ったのは、土地に深く根差して生活をしている巧ですら、花(敬愛の念)を忘れがちになっているところです。
巧が銃声を契機に花のことを思い出す描写があります。
銃声は即ち鹿の存在を示すものです。
鹿は、巧が花(自然への敬愛の念)のことを思い出す契機になっています。
花の小さな体格や、町人との距離感や、行く末は、この町の自然への敬愛の念が、儚く消え入りそうな状況にあるということを表しているのでしょう。
ラスト
初見時。
冒頭の暴力的なチェインソーの轟音、説明会での坂本を強引に座らせたときの音、巧と業者の連絡先交換を促した区長の手引き、町の便利屋……。
日本の田舎ノワールのラインがいきなり立ち現れたかのようでびっくりしました。
いきなりだったのは、巧がその瞬間まで自分の仕事を忘れていたからだと思います。
鹿を目前にして、自然への敬愛の念、又は車内の闇の中での決意を思い出したのでしょう。
鹿の登場は、人間ドラマの中に自然がいきなり介入してきたようにもみえましたが、本来、自然に介入し続けているのは人間側です。
最後、オープニングの反復となる夜の林を見上げたショット。
オープニングとは違い、日は完全に落ち、月がスクリーン左側に出ていて、左右の均衡が崩れています。
これは決定的にバランスが変わり、事態が不可逆的に進行したと読み取れます。
ラストは日が落ちたはずなのに明るいままの非現実的な舞台です。
描かれていることが作品内の事実なのかイメージなのかわかりません。
こういう場合、真実は一つではありません。
本作においても、描かれているものが、客観的事実として整合性がとれるようなものではなかったと思います。
本作はオープンエンドなので、気になった要素を拾って観客が好きに咀嚼すればよいものだと思います。
ラストの解釈
私の解釈は、自然破壊を前に右往左往する愚かな人間の姿を描いているというものです。
愚かさは悪でしょうか?
「悪は存在しない」というタイトルは、愚かな行為で大変なことになったとしても、人間は悪そのものではないのだからという、人間への慰めや未来への希望を持ったものだと考えています。
悪だ正義だと考えるときに、気を付けないといけないことがあります。
それはこういう倫理学的な問いを、それ即ち「誰が悪いか」、「どっちが悪いか」という問題設定で考えてしまっていないかという事です。
査定の焦点を「行為」に当てるのか、「人格」(又は魂)に当てるのかでも話が全然変わってきます。
基本的に「行為」は裁けても、「人格」は裁けません。
陥りやすいのは「人格」に焦点をあてた「どっちが悪いか」、「誰が悪いか」という不毛な思考です。
こういう考えは、「みんな事情があるよね」という稚拙な相対主義を呼び込むだけです。
悪である「行為」は存在しても、悪そのものである「人格」は存在しません。
例えば、『対峙』(監督:フラン・クランツ)はそのテーマを深く丁寧に描いていました。
コンサルや芸能事務所社長の「人格」は悪なのでは?と思う方もいるでしょう。
それは、高橋や黛に対する観客の印象がそうであったように、また別の角度の彼らの姿をみれば揺らぐ程度のものです。
一方、自然破壊も殺人(未遂かも…)も悪い「行為」です。
高橋だからって殺されていいわけないですよね……(笑)?
ここから、「個人」に焦点を当てた話から、「総体」に焦点を当てた話になります。
人間と自然とを対比させて考えた場合、現状、人間は「悪」だと思うんですよね。
自然破壊はもう手遅れともいわれるくらいの惨状で、環境保護はやらないよりはマシ程度のことしかできていない。(いや……それすらできていない)
ましてや根本的な解決など到底できていないのが現状なので。
でも、それでも人間と自然との関係(バランス)は、人間の振る舞いで変えていける可能性だってあります。
「悪(そのもの)は存在しない(……よね?)」と、自然破壊の進行に対してまともな対処がうてない人間の愚かさと、それでも人間に希望はあるんじゃないの?という問いを投げかけるタイトルだと思いました。
私、本作を二回観ました。
最初観た時はあっけにとられて、「え……、グランピングとグラップリング(寝技)をかけているのかな?」と思いましたね。
噛み応えのある傑作でした。
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