学習塾ブランチをはじめたわけ②学級崩壊していた高校時代

こんにちは。

学習塾ブランチの西原です。


学習塾ブランチをはじめた理由を整理しようと書き出したら、中学生の頃まで思考が戻ってしまったため、そこから書き出していますm(_ _)m

あまり関係が無いところですが、お付き合い頂けますと幸いです。


1.動的な学級崩壊をしていた高1

極度の人見知りを抱えた自分
高校に行ったら何か変わるかなと淡い期待を寄せ始まった高校生活
男子も女子も運動部に所属している生徒が多いクラスだった

勉強よりも部活!(一応、進学校)
かくいう自分も運動部で、みな同類
高校では朝課外という0時間目という授業がある

授業開始の鐘がなったときに座っているのは半分ほど
ひどいときは半分もいない。
それからパラパラ人が集まってき、朝課外が終わる頃にはみんな集まるような日もあった


通常の授業中も授業を聞いていた記憶はあまりなく
後ろにいる友達と紙でオセロをしたり、絵を描いていたり、
2、3時間目の授業中には、お弁当を半分ほど食べる。

隠してはいたけれど、みんな食べていたので
今思えば、匂いでバレていたように思う、、、


毎週ある漢字と英語のテストは20点満点
13点以上が合格(だったと思う)で、合格しなかったらやり直しのプリントをしないといけない

なので、普通は頑張るところなのだが

うちのクラスは誰もしない
他のクラスの平均点が合格点以上の中、うちのクラスは10点ない。
ほぼ全員不合格なので、やり直しのプリントは全員に配られる

それもちゃんと提出していたのかどうか覚えていない

担任の先生からは「君たちは今回も一番です!(下からという意味の皮肉)」とため息交じりに言われていたのを覚えている。


なぜか男女の仲もあまりよくなく(男子が全然文化祭手伝わなかったせいな気がする)、席は廊下側が女子、窓側が男子ときれいに分かれ
横3人の机はぴったりくっついているのがうちのクラスのスタイル

通り道は教室の端と、真ん中しかない

歴史の先生が「なぜおまえたちのクラスには朱雀大路があるんだ?」と言っていた


当時はとても楽しかったけれども

客観的にみると学級崩壊と言われてもおかしくないほどの状態だった



2.病気じゃないかと疑われた高2

新しく始めたテニスという競技が楽しく、
そのために学校へ行くような毎日
秋になり文理選択があった


自分のキャリアの最初の間違いは高校やその先の進路のことを良く調べずに高校選択をしたこと。

次はこの文理選択。
これは結構致命的だった。
中学時代から数学が好きだったので、将来は数学の先生とかいいなと思っていた

だから本来は理系に進み、数学科の大学に進む必要があった
当時の自分はそんなことも知らずに、数学の先生になる試験のようなものがあって、それに受かったらなれると思っていた

なので、文理選択が将来のキャリアを左右する選択などとはつゆにも思っていなかった

数学は好きだけど化学は嫌いだった
実験がない化学は面白くなく、授業もよく理解できず、
理系は嫌だなとまず思った

加えて、理系に行くと男子クラスになる可能性があるとも聞き、
1年のクラスが男女の交流ほぼ0な変わった教室だったので、
男子クラスは嫌だなという理由が後押しし、文系を選んだ


2年生になると、なぜか特進クラスに入れられた
そんなに成績が良かったとは思っていなかったが

女子の数が男子の2倍+1という
多数決では両手を挙げても女子の意見には勝てないクラスだった


最初はカルチャーショックで戸惑いを隠せなかった

まず、朝課外にはみんな揃っている

自分はいつも廊下で先生を追い抜いてギリギリセーフで入る
だから、気まぐれでたまに早く学校に行くと、途中の会う友達にギョッとされる。「遅刻かと思って焦るからやめろ」となぜか怒られるので、いつもギリギリだった。

無遅刻だったのはある意味奇跡。

(試合の次の日は学校を休むことにしていたので、無欠席ではなかった。
よく親はそれを許していたと思う。。。)


さらに、

・男女混合で席替え
・休み時間に小テストの勉強をしている
・誰もカンニングをしない
・誰も授業中に弁当食べない(おかげでお腹空く)
・誰も授業中に寝ない

意味が分からなかった

授業中に寝て体力回復して、思いっきり部活していた1年時の生活から
授業中に寝ていたら起こされる環境になってしまったので、休み時間を睡眠に費やした


担任の先生からはこの光景が異様だったようで


うちの親にクラスに溶け込めていないのではないか、
もしくは睡眠障害あるのではないかと共有していたようだった


最初こそ戸惑ったが次第に慣れてき
特進クラスの友達に合わせていると自然と成績もあがっていった

やっぱり環境は大事


3.静的な学級崩壊をしていた高3クラス


特進クラスは少しの入れ替えはあるが、ほぼそのまま持ち上がり
部活も引退して、本格的に大学受験の準備モードに入っていった


国公立を目指す特進クラスなので、みんな勉強はできる
学年平均が60点台のテストで
クラス平均が90を超えることは多く

苦手な英語93点で喜んでいたら
クラス平均は94点と言われ、なんだそれ!と突っ込んだこともある

そんな感じなので、授業に対してもシビアだった
特進クラスに合わせて授業を進めてくれる先生の授業はみんな真剣だが

自分たちの望むレベルの授業をしてくれない先生のときには
授業は聞いていなかった

意識的に聞かないのではなく物理的に聞かない
授業がうるさいから、耳栓して赤本を解いている人は多かった
自分もその中の一人

それで一人先生が病んでしまったらしいという話は
卒業後に聞いた


その時、これもある意味学級崩壊の形なのかなと思った


4.一番近い大学を目指す

進路は大学で絵の勉強がしたいと思っていた
数学も好きだったが一番絵が好きだった


だから本当は美大に行きたかった
しかし、九州に美大はなく


さらに美大を受けるならば、デッサンの試験もあるという
デッサンの勉強を今からやりながら、受験勉強は無理!と思い


絵を描くのに適した環境をつくる方にシフトした
絵を描くのにはとにかく時間がかかる
だから、一人暮らしをしたり、通学時間が長いのは避けたかった

大学はとにかく、家から近い大学となった
それがたまたま公立も私立も、九州トップの大学だった

お金のかからない公立がいいかなという理由で
第一志望は九州大学、第二志望は西南大学とした
数学を一番使う文系の専攻は何か考え、経済学部を受けることにした


先生にそのことを告げると呼び出された
高校受験の時と同じで
九大はおろか、西南もE判定だよ、滑り止めといっている大学さえ今は無理
と言われた

確かにこの時も模試は悪かった。
偏差値は40台だったと思う。


自分の中で何かのスイッチがまた入り
よし、この先生に「参りました!」と言わせようと
またこのパターンに入ってしまった

高校受験のときと違ったのは、目標がかなり高かったということ
高校の2年間はほとんど授業は寝ていて、部活のために学校へ行くような生活をしていたので、まぁ基礎はなっていない

ひたすら勉強は頑張った
クラスに塾通いしている人がいなかったことと、中学の時も塾に通っていなかったので、塾に行こうという発想は1mmも出てこず
ひたすら一人で取り組んだ

親からはノイローゼじゃないかと心配していたと言う。
何も言わずにご飯を食べ出し、いきなり「あっ!」と言って立ち上がり部屋にこもり1時間以上出てこない。そんな感じだったらしい。

クラスメイトからも同じようなことを何度か言われた
図書室でみんなで勉強している中
寝ている自分、、、
なんの前触れもなく、がばっと起きて、だーっと数学を解きだすことがあったらしい。(自分はあまり覚えていない)

なんだこいつと思われていた


とにかく数学が好きだったのは覚えている
国立大の難解な問題を解くのが楽しかった


なんだかんだで成績はあがり
偏差値は40台から60台まであがり(数学は70台をとったときもある)
先生たちからは急上昇している生徒の一人だと言われ嬉しかった


九大の合格圏内にはどうにか届くようになってきたが


センターで失敗(国語が悪かった、、、)
7割ちょっとしか取れず、D判定
経済学部なのに、数学の点数は1/2に圧縮されるなぞルールがあり、
数学のプラスも活かせず、、、


先生からは他の国立大も勧められたが
家から近いところに行くのが目的だったので、そのまま九大を受け撃沈
予備校からも色々案内が来ていたけれど、早く絵の勉強がしたかったので西南に行くことになった


大学に行けば、何か変わるのかもとまた淡い期待を寄せて

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