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子どもの感知のしかた

こんにちは、オオノトシヒロです。
あ!オロロトリヒロです。
人前に出ない生活を続けていたら本名に戻ってしまいました。
(半分冗談ですが、今年は本名でも活動しようかなと思っていますので以後お見知りおきを。)

みなさんお元気ですか?
今日は連載『COINN in DEEP』第3回ということで前回の萬里くんからバトンを受け取りこの1年で感じたことと今考えるCOINNについて書きたいと思います。

僕が最初に書くのは去年2020年4〜5月の自粛期間中に感じたり考えたことです。

公園で過ごす日々

我が家には今4歳の娘がいます。
去年の春の時点では3歳で年少クラスが始まるタイミングでした。
妻と相談をしてこの自粛期間中は保育園には預けずに2人で曜日を分けて娘と過ごすことに。
僕は月曜と水曜と金曜日の午前午後どちらか担当。
いやー仕事全然できなかった(笑)
昼寝してくれたら1時間できるぜラッキーという感じでした。
それでもなるべく外で遊ばせたいと思い天気の良い日は一緒に近所の大きな公園にでかけました。

さて、公園での過ごし方ですが、最初はボールやらシャボン玉やら遊び道具を使ったり鬼ごっこしたりかくれんぼしたり、退屈させちゃいかんと言わんばかりの遊び方をしていました。
しかし、ちゃんと遊ばせなきゃと意気込みすぎて無理をしていたんですね。後半は息切れしてきて、まあそんなに頑張らなくていいやと思い直しレジャーシート広げてただ一緒にゴロゴロするように。

空に浮かぶ雲のかたち、てんとう虫や蟻、木漏れ日、風で揺れる花や草。そんなものたちを眺めながらぼーっと過ごしていました。

ぼーっと観察を続けていると

そんなレジャーシートな日々。
なにせ時間はたっぷりあったので、しぜんに周囲を観察するようになりました。

蟻や草を手のひらに乗せたり、木漏れ日の動きを目で追ったり、「この草のかたち面白いね」なんて言いながら興味を持ったものを見ながら会話していました。しかし、これはこれでもちろん楽しいけどやっぱり徐々に飽きてくるわけです。

飽きたなと思いつつも、ぼーっと観察を続けているとある時点から風景の見え方が変わりました。ゆるーくフォーカスが合っているような視界全体から無意識的に一部をピックアップして「いい感じ」「きれい」「面白い」と直感的に感じるように。
風景やものから記号としての言葉が剥がれ落ちていくような感覚。
または、感覚が先行して言葉が遅れてやってくる感覚。「美しい!、、緑のやつ、、葉っぱが」「気持ちいい、、肌が、、あー、風か」みたいな。

そんなハイパーぼーっとした状態で、「あーうん」「いいねー」なんてぽつぽつとお互い気ままに声を出しているだけなんだけど、それでもなんとなく娘とその時間を共有できてた不思議。(実は娘は退屈だったってオチは大いにあり得るけど)

たぶん、この思考しないで直感的に風景やものを感知するような行為って、自然の中に出かけて行ってぼーっとする行為とそのモードと同じようなものなのだろうと思う。(実際に似たような体験は結構ある。)
ただその時は娘と一緒だったからか、何か視点や感じ方を共有できたような気がしたんです。感覚を娘に合わせてチューニングできたような。

頭から言葉を追い出してみる

きっと風景やものを見たり認知する時って「言葉」の影響力がとても大きい。
子どもたちをみていると、僕たち大人がいかに言葉に縛られてるかなんてことをよく考える。
風景一つとっても全く同一の動物や植物は存在しないし、光・音・風・気温などなど常に変化しつづけている。大人たちは微細な変化に富んだ膨大な情報を言葉を使い記号化することでかなりの情報量を削ぎ落とし整理されたものとして受け取っている。
何か魅力的なものがこぼれ落ちているに違いない、と僕は思う。

子どもたちは大人よりも持つ言葉が多くない分、未整理な膨大な量の情報を受けとり、その微細な変化までも感知しているのかもしれない。
そう思うと散歩中にコロコロ興味の目先を変えるのも、大人が同じように見えるものをずっと面白がったりするのもなんとなく納得。
どんなに世界が魅力的に映っているのだろうかと思うととても羨ましい。

今回娘と共有できた気になれた何かは、言葉がうまく頭から追い出せたことで一時的に少し近づくことができた子どもの感知の仕方なのかもしれない。
一連の経験で思ったのが、いちいち自分の行動に意味や目的を持たせないって大事だということ。ただ、見る、感じる、を忘れないように。

これまでもこれから先も、あんなに何もしない時間は過ごすことは無いかもしれない。しかもその時間を娘と共有できたことはとても貴重なことだったんじゃないかなと思う。


子どもごころって

今回の体験は捉え方次第と言われてしまえばそれまでのことだし、専門家から見たらとんでも論なのかもしれないけど感じたことの記録として残したくて書いてみました。

COINNの少し前のプロフィールで「大人のなかの子どもごころのために」といったようなことを書いていました。(メンバー一同へ、うる覚えですみません)

子どもごころって何だろうと考えた時に、これまでに書いた「言葉を頭から追い出してみる」ということに面白いヒントがあるように思う。
大人が子どもに感覚を合わせて一緒に過ごす時間や場所が作れたらきっと面白い。

さてどんなことができるかな。

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