人工社会と自然個人

※個人のつまらない日記です。どちらかというと、自己分析のための記録用です。

タイトルは対義語を並べてみただけだが、前にどこかで書いたように、今の人間社会と自然は反対のベクトルを指す。

なので、前回書いたように自分自身が反対を行く者であるなら、それは自然と同じ思考を持っているということ。

『自然個人』と名付けてあるように、自然を行く者はこの社会では孤独へと向かうベクトルであるということ。

そして、スピリチュアル系のツインレイ試練というのは、この自然へ戻って行くことが目的だということ。

これを主義で主張するのなら、
『個性主義』と『人格主義』が妥当だろう。

個性主義とは、運も含めた天から授かった能力だけで、自然法則のプロセスである“努力”なしで、深いことを考えずに人間関係を円滑に広めていく...という主義で、

人格主義は自己の内面を磨き、根本的な物の見方や考え方、信条、価値観、哲学といった人格的な部分を高めることで、人は真の成功の道へ歩むことができる...とするもの。

どちらも1996年初版の啓発本またはビジネス書で、アメリカのスティーブン・R・コヴィー氏著の『7つの習慣』という本に書かれている。

一言で内容を説明すると、『人格主義を完成させた上で個性主義をうまく発揮することができる』という、

僕の頭で解釈する限りでは、この日記のタイトルの『人工社会と自然個人』を両立させることと同じに想うが、本を書いたコヴィー氏本人でさえ恐らく実現できてはいない。

現代の社会に属している限り、自然な自分は人工的な思考に取り込まれてしまうからだ。

要は言っているだけで本質を理解しているとは言えない。

本質を理解していなくても、発想出来てしまうのがハイヤーセルフの力なのだ。

なので、ハイヤーセルフの力を最大にできれば、個性主義は成り立つ。

昔で言う神降ろしと同様なのだから、智慧やアイデアはいくらでも湧き出てくる。

ただ、その力を最大にするには内面的な自己を完成させなくてはならない。

コヴィー氏の言う、『人格主義』を形作ることのほうが難易度は高くなる。

よって、両立することなく対立する。
まるで“男女の仲”。
それか“水と油”の関係。

かつてのヨーロッパ社会(共産)主義がうまくいくと謳われていた背景には、宗教によって抑制されていて表面に出ることがなかった自分たちの人間性を、過信していたという話がある。

いざ、平等を実現させようとすると、人々の欲望は溢れんばかりに表面化され、社会主義が成り立つ程には人間性が成熟していなかった、という結果が出た。

時期が早かった。

というより、そもそも個人の人間性が育つような環境ではなく、ヨーロッパの多くは国王による支配か、宗教による支配が主だった。

なので、人格主義には程遠いと言わざるを得ない。それでも、個人の哲学的な思想はどれも素晴らしいと想う。

独り言なのでだらだら(ぐだぐだ)と書くが、
そういった正しい思想は個人の中に描くべきであって、外へと押し広げるようにはできていない、というのが僕の個人的な見解だ。

仏教やキリスト教にしろ、社会主義や共産主義にしろ、個人の中の思想や理想として存在するべきであって、

その理想を実現させるために自分自身がどういう人物であるべきか、を追い求める。

それが正しい社会の具現化という方法だ。
それ自体は魔法でも何でもない。

ただ、理想の自己を成熟させるためにハイヤーセルフなどの力を借りる。

それが正しい彼らの使い方であって、無目的に物質を生産・消費することではない。

内側に使って脳内を成長させたり、自分のための良いアイデアを生み出し、実行して更なる精神の成長を促す。

人間の本当の向上心というのは、そういうものだったはずだ。

本当に欲しいもの、本当の望みというのは、精神性の向上と次元の高い世界や社会を築くことで成り立つ、

深い絆によって互いが尊重し合う人間関係だったはずだ。

少なくとも僕はそうだ。

逆を言えば、そういう社会しか(うまくいく方法を)僕は知らない。

まだ人類には難しいと言わざるを得ない。


これだけのご都合主義を述べたのだから、あと僕ができることは神(ハイヤーセルフ)頼みしかない。

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