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『よむうつわ 茶の湯の名品から手ほどく日本の文化』

『よむうつわ 茶の湯の名品から手ほどく日本の文化』上下巻
 ロバート・キャンベル 著 淡交社 2022年刊行

 これも図書館にて何の気なしに手に取った本。元来わたしはテレビの「なんでも鑑定団」で依頼者が鑑定額に驚くのを愉快に観ていただけの人間であり、茶道具や点茶の作法どころか、そもそも抹茶に無縁の野暮天です。しかし古典籍に造詣の深い前国文学研究資料館館長ロバート・キャンベル先生が書いてゐる! 序文を覗いてみると、保田與重郎とも縁の有る京都の淡交社から「(専門家とは)別の角度から茶道を眺め、その位置からの印象や問いかけなどが繰り出せそうな者の見方がほしい」とのことで月刊誌の連載を承諾されたのだといひます。コロナ禍をはさむ4年間に毎月一品のペースで、実物を所蔵する現地に直接出向いて行はれた鑑賞記は、所蔵美術館の学芸員・責任者との対談に、帰還後に認めた「触れた上で思うこと」を付して(12回×4)計48回、600ページ余のボリュームが上下二冊にまとめられてゐました。
 わたしは雑誌に連載だったことは知りません。写真や組版が瀟洒かつ清潔で、図書館の棚で目を引く本だったから手に取ったのですが、内容も対談なので大変読みやすい。「なんでも鑑定団」の視聴者よろしく、梅花皮(かひらぎ)やら貫入やら牙蓋(げぶた)やら大名物(おほめいぶつ)やら、意味も読み方も知らぬ童蒙にとっては、茶道具についての教養をやさしく説明してくれる本としての側面は先づありながら、学芸員たちが御世辞でなく感心するところが素人目には面白い。すなはち対談においても後記においてもハッとさせる着眼点・発想が、甚だ詩的でしなやかな言葉遣ひでもって遠慮なく、つまり謙譲な忖度を伴った鋭い質問や一家言が折々に煥発披露されてゐるのであります。
 テレビで名が売れたからといって、そこいらの芸能人がロケで感想を述べるのとは訳が違ふ。日本文学ことにも江戸期版本の研究家であり収集家愛書家であるキャンベル先生ならではの見識による「見立て」が、茶道のことなどまったく無知なわたしのやうな者にも、左様、和本大好き人間にはとりわけ頷かれることがちょくちょく出て参りましたので、敢へて「古書好きのための名品茶道具教養書」として、このブログにて紹介したく思った次第です。
 本好き(だけ?)が喜ぶ文章は後で引きますが、その前に歴史的名品といへどもかつては実生活の中で道具として息づいてゐたことの大切さを語ってゐる、印象的ないくつかについて抄出します。

「どこの誰だかにとってただの「日常品」であったという素性を隠そうとしない。」(唐物尻膨茶入 銘 利休ふくらを見て)上巻217ページ
 
「私の勝手な想像なのですが、この茶壺のかつての所有者である浅井長政、その前の豊臣秀吉たちは、こういう凸凹の面の方を愛でていたかもしれませんよ。(中略)戦国の世ですからそれまでに亡くした家臣や家族も大勢いるでしょうけれど、「本当の人生とは、人間とは、こういうものだよ」と、壺を前に語り合えるような気がいたします。」(唐物茶壺 銘 弾正を見て)上巻245ページ
 
「「初祖」と「大師」だけはきちんと書き、中の「菩提達磨」は別の心境として揮毫する。きちんと書けるけれど、その中で、違う眼差しを自らに向けることを伝えているような気がします。」
(中略)「誰かからお寺に掛ける書を頼まれる。それには応じる。ちゃんと求めに応じながら、しかし、その中に重層的な表現を投下しよう、と。自分の内なる目を養ってから物事を見ることを、それを手渡した相手やその先にいる人々に伝えようとしてものを書く。」(一休宗純筆 初祖菩提達磨大師を見て)下巻141ページ
 
(自宅テーブルを猫がひっかいて付けた傷を磨いて直した後で)「木肌の艶やかな温もりは見事に蘇ったが、傷に染み込んだオイルのために猫の爪跡はいよいよ濃く、模様としてむしろ際立つようになったのである。美しい、とは違うけれど、褐色の二本の線に目が集まり、不思議と心の安まる風景となった。」(割高台茶碗 長束割高台を見て)下巻157ページ
 
「「一物無用」と言えるものに価値を見つけ、どうそれを用いていくかを考える。それはもう、「どう生きるか」を問う哲学の領域にも近い気がします。」
「いつも不機嫌な年上の親戚が、宴会で突然話をふってみんなを盛り上げてくれた瞬間のような格好良さと、用不用も美醜もまったく意に介していない素振りを見せるしたたかさ、が「破袋」の魅力だとわたくしは思った。」(古伊賀水指 銘 破袋を見て)下巻180-181ページ

 
 極め付きは国宝「破れ虚堂」の掛軸を看て、書いた老師や受取った青年僧の心境はもとより、破れるに至ったそのいきさつに思いをはせるところ。
「十七世紀前半の京都。作品を大切に保管した富豪大文字屋の蔵の中に丁稚が立てこもり、自害する直前に書幅を切り裂いたという。長い戦の時代が終わり、せっかく平和な空気に包まれていたのに、自害とは痛ましい限りである。八兵衛は、取り返しのつかない失敗を犯して生きる望みを失ったのか。主人のあまりにも理不尽な扱いに業を煮やし、今でいうブラック企業への意趣返しを企てたのか。歴史の霧は深く、杳として分からない。いずれにしても名品というものが持つ深い人間味と、数奇な歳月に思いを馳せたい。」(虛堂智愚筆法語(破れ虚堂)を見て)下巻197ページ

 歪みも割れも虫喰ひも、なんでも「景色」にしてしまふ茶道の世界ですが、言葉にするしないは別にしてこのやうに思へる心性こそ日本文化の深奥に触れようとする心がけなのだと思はれてなりません。
 生活の場所から美術館に祀り上げられてしまった名品に、素手で触ることと自然光の下で観ることを連載を引き受ける条件とされたさうですが、実際に水を潜らせて観て見たいといふ希望を、しばしば述べては自ら封印されてゐるの読んでは、なにが「景色」かと同情を禁じ得ませんでした。

 ではでは江戸期版本の研究家であり収集家であるキャンベル先生ならではの言葉を抄出して紹介を終ります。

「私は仕事柄、江戸時代の十八~十九世紀の書画を拝見する機会が多いのですが、その際、着讃された歌や漢文を読み解く必要が生じます。十八世紀の終わり頃から京都、江戸で日本の南画・文人画の市場ができ、裾野が一気に広がります。その過程で、座興で描かれた席画がたくさん出回るようになる。このとき、席画を見分ける一つのポイントが、畳の目の痕跡が墨や色絵具の描線に見えるかどうかです。つまり毛氈をきちんと敷いたところで書かれた文字や図像か、そうではなく、その暇もないような状況で書かれた文字か、畳の目がそれを推定するためのひとつの指標となるのです。また、江戸時代の、特に商業ベースで作られた本の、たとえば表紙の「見返し」の紙がはがれたところに、業者たちだけが分かる符丁が書かれています。表紙の付け方、蔵書印の色、それに手垢の付け具合、そういったことから分かることがあります。実際にそれらに依拠しながら、私たち研究者は「書誌」と呼んでいるような、本の基本情報を記述していきます。陶器に関しても、そういう痕跡が産地や時代に直結するということですよね。」(瀬戸小川手茶入 銘 ふる郷)上巻237ページ
 
「伊藤東涯の自筆稿本「馬蝗絆茶甌記(ばこうはんちゃおうき)」は、文学研究者でもあるわたくしにとってまさに「名品」であり、その出会い自体大きな収穫であった。対面して感慨を禁じ得なかった。陶芸がご専門なのに、三笠さんは紙の資料をめぐる質問のシャワーを浴びる結果となってしまったのである。
 東涯の父・伊藤仁斎以後、代々の塾主の著述と蔵書は現在、天理大学附属天理図書館に古義堂文庫として大切に保管されている。東涯は、享保十二年(1727)正月にこの茶器を豪商角倉玄懐の自邸で見て、直後に一編を書き上げたらしい。没後に息子らが編纂した『紹述先生文集』巻六に収められ、公刊されている(宝暦八年〈1758〉)。 
※下記参照
 この文章が、交遊のあった角倉家当代に対し、名器拝見のいわば置き土産として東涯自らが贈ったものであると考えて差し支えない。儒者と豪商との交流から産み出された漢文コミュニケーションの一例として実に興味深いのだが、わたくしはさらに茶碗を前に、その伝承を亭主から知らされている東涯の表情を想像する。思索を深めた父親と違って東涯は即物思考型の思想家であり、教育者であった。経世や道徳を概念として考え抜くというよりも、具体的なマテリアル(素材)を通して物事を考証することに長けている。東涯は、周囲の儒学者と比べて、日本の言葉や制度などに熱い眼差しを向けており、和文でも多くの著作を残している。ひとつの茶碗にまつわる重層的な伝承の世界を思い描き、文字に記録することは、彼にとって何よりの喜びであったに違いない。」(青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆)上巻313ページ
 
「私は古典籍を、留学生の頃から少しずつ買ってきました。先生も先輩たちも、みんな同じようにたくさん本を集めていました。糸が切れたときには自分で繕い、絹の糸で綴じ直したりする。それは中身を理解することと別の営為ではなく、繋がっているんです。自分の手がいつでも実際に原本をめくって読むことができるというのは、「情報」という言葉がそぐわない世界であり、感覚ですね。」(南蛮水指 銘 芋頭)下巻292ページ
 
「私の研究は十八世紀から十九世紀の江戸・大坂・京都、三都で印刷された木版の版本を繙くことを中心にしているのですが、たとえば原資料の装丁や紙質、手で紙を繰る際の指の跡など、文字情報以外の「何か」が作品世界を理解する上で有用なのです。物体そのものが持つ「たたずまい」とでも言うべきものからしか得られない豊富な内容世界があると実感しています。」(長次郎作黒楽茶碗 銘 面影)下巻304-305ページ

 
 さて最後に。上巻97ページ、江戸時代のガラス器「藍色ちろり」を「触れた上で思うこと」に
「幕末江戸、電気照明はもちろんのこと、ガス灯もまだない時代に酒楼の「玻璃障」(=ガラス窓)を詠み込んだ漢詩が確認される。」
として(文久二年、大沼枕山「有明楼所見」)が引かれてゐましたので、さきの文中「※下記参照」伊藤東涯の「馬蝗絆茶甌記(ばこうはんちゃおうき)」の原文とともに掲げます。

台東区立図書館デジタルアーカイブ より

 「有明樓所見」  大沼枕山 『枕山詩鈔』 三編 26丁
畫樣樓臺枕水潯
玻璃障薄峭寒侵
隔江春色分濃淡
花際成晴柳際陰

 「有明楼所見」
画様の楼台、水潯(ほとり)に枕す
玻璃の障(ガラス窓)薄くして峭寒侵す
江を隔てて春色、濃淡を分つ
花際、晴を成す柳際の陰

早稲田大学図書館 より

「馬蝗絆茶甌記」  『紹述先生文集』巻六18丁
器之尚古也何諸其多閲歳月免乎水火之難逃乎
碎裂之厄完全以傳久斯可尚已况其精細巧緻經
古人鑒賞[載]名流欵識其益可珍哉昔安元初平内
府重盛公捨金杭州育王現住佛照酬以器物數品
中有青富茶酥一事翠光瑩徹世所希見唐陸龜蒙
詩云九秋風露越窯開奪得千峯翠色来或云錢氏
有國時越州焼進不得臣庶用故云秘色豈其是乎
相傳謂之砧手慈照院源相國義政公得之最其所
珍賞就有璺一脉相國因使聘之次送之大明募代
以他甌明人遣匠以鐵釘六鈴束之絆如馬蝗還覺
有趣仍號馬蝗絆茶甌相國賜之其侍臣宗臨享保
丁未之歳予得觀之于宗臨九世孫玄懐之家予固
非博古者然其華雅精緻宜其為前世将相所尚也
鳴呼傳之自其祖先賜之自其祖之君得之自平内
府以到于今則已五百六十餘年自慈照公到今亦
已向三百年可謂善傳矣豈止其器之精巧與經名
公鑒賞而已哉非家道脩官業成世不失其守曷能
寶傳至斯乎其所以欲永祖澤而裕後昆者不可以
不記及其請文也奚亦辞焉  享保丁未年四月
 
「馬蝗絆茶甌記(ばこうはんちゃおうき)」
器の古へを尚ぶや何ぞ。其れ多く歳月を閲し、水火の難より免れ、碎裂の厄より逃れ、完全にして以て久く傳ふは、斯れ尚ぶべきのみ。
况んや其の精細巧緻の、古人の鑒賞を経、名流の欵識を戴くは、其れ益(ますます)珍とすべきかな。
昔、安元の初め、平(たいらの)内府重盛公、金を杭州の育王(阿育王山)に捨(喜捨)す。
現住の佛照(仏照徳光)、酬ゆるに器物数品を以てす。
中に青窯(青磁)の茶甌一事有り。翠光瑩徹、世に希に見る所なり。
唐の陸龜蒙の詩に云ふ、
「九秋の風露、越窯開き、千峯の翠色、奪ひ得て来たる」と。
或は云ふ、錢氏、(十国呉越の)國を有する時、越州焼進して臣庶の用ふることを得ず、故に秘色と云ふと。
豈に其れ是ならんや。相傳して之を「砧手」と謂ふ。
慈照院の源相國(足利)義政公、之を得て最も其の珍賞する所なるも、底に璺(ひび)一脉有り。
相國、使聘の次(つい)でに因りて之を大明に送り、代りに他の甌を以てすることを募(もと)む。
明人、匠をして鐵釘六つを以て之を鈴束(管束)して遣(つかは)せば、
絆すること馬蝗(いなご)の如く、還って趣き有るを覺ゆ。
仍て「馬蝗絆茶甌」と號す。相國、之を其の侍臣宗臨に賜ふ。
享保丁未(12年)の歳、予、之を宗臨九世の孫、玄懐の家に觀るを得。
予、固より古へに博き者に非ず。然れども其の華雅精緻は宜(よろ)し、其れ前世の将相の為に尚ぶ所なり。
鳴呼、之を傳ふること其の祖先よりし、之を賜はりしこと其の祖の君よりし、之を得しこと平内府よりして以て今に到すは、則ちすでに五百六十餘年、
慈照公より今に到るは亦たすでに三百年に向(なんなん)とす。善く傳ふと謂ふべきか。
豈に止(ただ)に其の器の精巧と名公の鑒賞を経るのみならんや。
家道を脩めて官業成り、世に其の守りを失せざるに非ずんば、曷ぞ能く寶傳、斯に至らんや。
其れ祖澤を永くして而して後昆を裕(ゆたか)にせんと欲する所以の者、以て記せざるべからず。
其の文を請ふに及ぶや、奚ぞ亦た辞せん。  享保丁未年四月

ロバート キャンベル著『よむうつわ』淡交社 2022年

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