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わたくしの宮沢賢治研究2021年夏

吉本隆明『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫)を参照しながら2021年8月に思索した事をここに記す。「銀河鉄道の夜」と七夕の関係について。カムパネルラの母をめぐる考察など。


いつのまにか机の上が吉本隆明だらけになってしまった2021年夏。夏目漱石と宮沢賢治に関する文献を集めるだけで大きな図書館いっぱいに本がうまるだろう。吉本隆明研究をしていてそう思った。 50を過ぎるといよいよ人生がわからなくなる。先行き不安という意味ではない。20代の時は人生の意味を求めて必死にもがいていた。何かに打ち込めばひらけると信じて。40代で迷わなくなるかもと淡い期待を。見事に裏切られて。麻痺させる技術だけを習得した。眠りから目を覚ますと。やっぱりわからん。わからないまま意識を働かさなきゃならないのは軽い拷問だ。内臓も筋肉も血流も勝手に動いている。その身体の周囲の環境も勝手に流転している。誰かがまたニュースを作り出している。地球はぐるぐるまわり太陽から離れたいのに離れられずにまた一周。意識的であることが恐ろしい。意識それは何? 宮沢賢治さんは37歳で死んでしまった。夏目漱石先生も49歳で死んでしまった。50歳にならないで。50年ではわからないものが100年でわかるのか。わからないまま行くだろう。わかる事にこだわらず行くしかねえ。87歳で死んでしまった吉本隆明氏は宮沢賢治さんへのリスペクトから思索をスタートした。そして夏目漱石についても数々の講演を行って『夏目漱石を読む』という一冊に。わたくしは夏目漱石の50年と宮沢賢治の37年を足して吉本隆明の87年があると勝手に思っている。1989年に出版された『宮沢賢治』の第一章で吉本隆明氏は賢治さんの手紙を詳細に検討している。浄土真宗を背景に持つ父政次郎と日蓮宗に心酔していく息子賢治の手紙のやり取り。そこから見えてくるものを吉本フィルターを通して語るかたち。従順でありながら反抗的な息子。厳しいようでひたすら甘い父。賢治さんは戸籍上では1896(明治29)年8月1日に生まれた事になっているのできょうは宮沢賢治研究に最適な日ですよ。実際は8月27日生誕。8月はケンタウル祭の夜にジョバンニが銀河鉄道に乗った月。8月は死を身近に感じる月。死を身に入れながら詩を耳に入れていく。《私は前にさかなだったことがあって食はれたにちがひありません》と保阪嘉内へ宛てた手紙に書いた賢治さん。蝉が激しく鳴いている。あれは死者たちの声でもある。幼虫時代に土の中に何年もいて。死者たちの思いをたっぷり吸収し。地上に出たら一気に吐き出す。意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味意味。成虫はひと夏を生殖のために過ごし燃焼する。いったい誰が蝉の鳴き声を聴いて良いと許可したのだろう。あの声が実は有害であると証明されたなら。人間はマスクをするように耳に詮を入れるようになるだろう。花粉を有害と考えるようになった現代。蝉も心をむしばむ音波を出す害虫とみなされて。バルタン星人の顔は蝉がモデル。地球侵略をたくらむ異星人は鳴いて鳴いて人間を狂わしている。蝉は瞬間移動や分身の術が使える。鳴き声がするのにどこにいるかわからない。忍者の名にふさわしい。1921(大正10)年7月下旬。いまからちょうど百年前に賢治さんは保阪嘉内に宛て次のように手紙に書いた。《私は愚かなものです。何も知りません たゞこの事を伝へるときは如来の使と心得ます。保阪さん。この経に帰依して下さい。総ての覚者(仏)はみなこの経に依て悟ったのです。総ての道徳、哲学宗教はみなこの前に来って礼拝讃嘆いたします。この経の御名丈をも崇めて下さい。さうでなかったら私はあなたと一緒に最早、一足も行けないのです》。←なんと切実な。懇願。脅し。保阪嘉内からしてみれば一方的な狂信。どこまでもどこまでもいっしょに行こうとカムパネルラに呼びかけるジョバンニの願望そのままである。銀河の誓いまでし合った親友は離れていった。賢治さんから嘉内さんへの手紙は73通現存しているそうだ。それに対して嘉内さんからの手紙は0通だなんて。戦争で焼けたことになっているが。保阪嘉内は返事を書かなかったのだと思う。《かれは生涯のはやい時期に日蓮から、朗々とした七五調のメロディと、自己誇大化のリズムをすぐに感受し、たしかに気力を鼓舞された。その余勢をかって脅迫感につかれたように親友保阪の折伏へむかう》と吉本隆明氏。1921(大正10)年の賢治さんは激しい。父親に改宗を迫ったが受け入れられず家出。東京でバイトしながら国柱会で活動。部屋で原稿書きまくって法華文学としての童話を創作。その渦中で親友を折伏しようと手紙を出す。熱い25歳の青春だ。

サイエンスライターの竹内薫さんが星座早見表の記述から類推して。ケンタウル祭の夜は8月12日の夜から13日の未明にかけてであると書いている。1918年8月13日が旧暦の七夕である事を考慮すれば。銀河鉄道の夜の場面設定は1918年8月13日であると推論できる。つまり旧暦で大正7年7月7日。ちなみに昭和7年の旧暦7月7日は1932年8月8日。平成7年の旧暦7月7日は1995年8月3日。お盆や流星群とは少しズレている。大正7年7月7日はやはり特別な777だ。物語を読む上でケンタウル祭がいつだったのかなんてあまり関係ないのだが。最先端の科学に関心を持ち続けた賢治さんのことを考えると。そういう謎解きを物語に埋め込んでいてもおかしくないし。読者としてはワクワクできる要素でもあるし。わたくしは777に強く惹かれるんだな。ペルセウス座流星群と七夕とスリーセブンがぴたり重なるなんて奇跡ですよやっぱり。タイタニック号遭難が1912年。花巻電話開通が1913年。第一次世界大戦が1914年。岩手軽便鉄道全通が1915年。タゴール来日が1916年。アインシュタイン一般相対性理論も1916年。文芸同人誌アザリア発刊が1917年。1918年までには銀河鉄道の夜の素材はほぼ出揃っていたのではないだろうか。

1994年8月12日高校時代の親友A介が死んだ。わたくしは彼の葬儀のために奔走した。お通夜は14日。お寺で準備をしていると美しい日暈が見えた。クラスメートはみな来てくれた。この年も13日が旧暦の七夕であった。わたくしの中でも親友の死とケンタウル祭はつながっている。
2021年8月12日13日14日は流星群がはんぱないらしい。しかも旧暦の七夕が今年は8月14日だとさ。令和3年の銀河鉄道が377ならば大正7年は銀河鉄道777。1918年。この年賢治さんは盛岡高等農林学校を卒業し。実験指導補助として土性調査に携わる。このことは銀河鉄道の夜の中のプリオシン海岸のシーンに反映されていると思う。東京にいたトシが病んで看病のため上京したのもこの年の年末だ。ジョバンニがひとりで母を看病している設定に何か関係がありそうだ。父親と宗教上の対立がはっきりしてきたのもこの年である。銀河鉄道の中での天上へ行く青年たちとのほんとうの神さま論争を賢治さんは父親やその周りの人達と実際にやっている。かりの仏とほんとうの仏。

吉本隆明氏は第二章で「銀河鉄道の夜」を読み込んでいる。1985年に出版された『死の位相学』では初期形をベースに議論されていて。最終形は全く視野に入っていない。それに比べると1989年に出した『宮沢賢治』にあっては資料の幅が格段に拡がっているように見える。この4年の間に勉強し直したらしい。ジョバンニの父の不在をめぐる考察は初期形と最終形の読み比べによって深みを増している。銀河鉄道の夜というテキストの面白さを再発見した喜びで筆がどんどん進んでいるかのよう。《「銀河鉄道の夜」という作品は、闇の中に掲げられたマンダラ絵図のようなものだ。作者の光線は中心部にあたっているだけだ。周縁部に近づくにつれて光線はだんだん弱くなり、作品の輪郭は闇とおなじ色彩で、溶暗してしまうようにできている》(83頁)。参考文献には入沢康夫・天沢退二郎『討議「銀河鉄道の夜」とは何か』もちゃんとある。ただ残念ながら入沢天沢両氏同様にカムパネルラの母に関して正しい解釈ができていない。賢治さんがいちばん工夫して挿入したエピソードを吉本隆明氏も読み切れていない。カムパネルラの母のエピソードを解釈するためには「ひかりの素足」という作品を参照する必要がある。吉本隆明氏は第三章で銀河鉄道の夜とひかりの素足を比較しながら考察している。川に落ちた友達を助けて溺れて死んだ人間はどこへ行ったのか。銀河鉄道の夜は死後の世界を描きその謎に答える物語だ。賢治さんにはビジョンがあった。菩薩はこの世界にやって来る。ならばカムパネルラの行き先は決まっている。それは天上ではない。沈没する船から姉弟を助けられずに一緒に海に沈んだ家庭教師の青年はみなと一緒に天上へ行った。カムパネルラの行き先だけが違う。石炭ぶくろが見えたところでカムパネルラは叫ぶ。「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集まってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ」。この野原をどこに設定するのかで物語の意味はまったく別のものになってしまう。入沢天沢両氏は生まれる前の根源的な母がいるところと解釈している。吉本隆明氏もそれに引きずられている。地上→天上→ほんとうの天上。《「あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました》。←カムパネルラ最後のセリフ。ジョバンニは銀河鉄道の汽車に乗る前に何を見ていたか。第五章の「天気輪の柱」には次のようにある。《ジョバンニは町のはずれから遠く黒くひろがった野原を見わたしました》。それから夜空を見上げ銀河をそらの野原だと感じる。銀河鉄道は地上→天上→地上を循環している。ジョバンニの意識は野原→そらの野原→野原をめぐる。そこに複雑なものはなにもない。カムパネルラは石炭袋を通り抜けて地上に戻る。どんな家庭のなんという名前で活動するのかはわからないが。ジョバンニたちと同じ場所に戻ったことだけは確かだ。それを目撃することがジョバンニの役割である。地上こそがほんとうの天上である。これが賢治さんが法華経から受けとったメッセージである。ジョバンニの視点から。〈父が不在(監獄に居るかも知れない)の家で病床にいる母を看病しながらバイトをかけもちし友人たちと距離が拡がっていつも一人ぼっちの淋しい現実〉が銀河鉄道の夜を過ごしてから〈牛乳がもらえて父親が戻って来るかもしれないという知らせを受ける明るい現実〉に転換する。ジョバンニの眼に黒くひろがっているように見えた野原がカムパネルラの眼にはきれいな野原に見えたこと。この暗示を読み落としてしまったら作者の工夫が台なしになってしまう。ジョバンニとカムパネルラの父のやり取りをみるとカムパネルラの死は必ずしも不幸ではないというメッセージが含まれている。銀河鉄道は死と生が交差する。野原は地上にも天上にもある。労働や調査。友情や嫉妬や憐れみ。出会いと別れ。地上と変わらない。宇宙は生死流転の現象。それ自体不幸ではない。ブルカニロ博士の化身であるカムパネルラの父はやはり博士である。博士は知っている。生死流転のなかにしかみんなのほんとうのさいわいは見つからない。ジョバンニもそれを知っている。そしてみんなのほんとうのさいわいを探すために走り出す。第四章で吉本隆明氏は銀河鉄道の夜とその他の童話との関連を調べていく。猫の事務所。よだかの星。なめとこ山の熊。ポラーノの広場。マリブロンと少女。めくらぶだうと虹。土神と狐。これによって銀河鉄道の夜が集大成になっている事が示唆されている。と云ってもそれもまだ未完成ではあるのだが。

8月の宮沢賢治研究も折り返し。研究は年月をかけるほど新鮮な発見がある。吉本隆明『宮沢賢治』の他に『宮沢賢治の世界』を合わせて読んでいる。こちらは講演の記録なのでよりアドリブが効いていて楽しい。文学大好き独学おじさんは権威から離れてるので自由に云いたい事が云える。そこが強み。 1989年7月30日に『宮沢賢治』を出版した吉本隆明氏はその年の11月2日に文京区立鴎外記念本郷図書館にて「宮沢賢治の文学と宗教」という講演を行い。さらに11月12日には兵庫県芦屋市民センターにて「宮沢賢治における宗教と文学」と題して講演した。1985年の時点では「銀河鉄道の夜」第四次稿が視野に入っていなかった事を考えると。あいだの4年間で吉本氏がいかに真剣に研鑽を重ねたかがうかがえる。特に法華経との関わりについて仏典を読み込んだ様子がよくわかる。しかし吉本氏の法華経理解は賢治さんの正確な法華経理解に比べたらあまりに表面的である。1981年に『最後の親鸞』を出版している吉本隆明氏は賢治さんと同じ親鸞から日蓮へという道筋を通りながら。評価においては逆転してしまう。《法華経には、一種の自己絶対化があって、そういう点では法華経はあまり好きではありません。親鸞のほうが好きです》と吉本氏。知識人には絶対に対するアレルギーがある。相対化が仕事の一つになっているからだろう。それでも宮沢賢治にはなぜか惹かれてしまう。そこが面白い。吉本氏が賢治さんに惹かれるいちばんの理由は絶対に向かう時に科学を挟んで文学で表現しようとした点にあるだろう。保阪嘉内に向かってしたように直接絶対をぶつけられたら俺はごめんだと云ってさすがの吉本氏もしっぽを巻いて逃げ出したにちがいない。『宮沢賢治』の第五章で吉本氏は水銀やコバルトや酸素といった化学用語を暗喩として活用する賢治さんの独特な詩の世界に切り込んでいる。その評価の仕方は的確だ。吉本氏は東京工業大学電気化学科を出て小さな工場を転々としたあと東洋インキ製造株式会社に四年勤めている。この経験のたまものか。賢治さんの表題作品「春と修羅」について。吉本氏は書いている。《自然という全体的な均質相を、言葉の世界にみちびきいれたために、どうスケッチしても像の差異がうすれて、起承と転結をつくれないところがある》。←詩句をストーリーの奴隷にしない。かといって超現実主義ともちがう。《また一方では言葉と言葉の陰影がつくりだす象徴でもないし、また自然に感情移入したための抒情でもない領域を成り立たせた。この二重の無意味化と意味化を綜合することが、宮沢賢治の詩(装飾された心象スケッチ)をわが近代と現代の詩の流れのなかで特異な場所においたといえる》。←ダダを超えた。

「春と修羅」という作品をどう読むか。宮沢賢治読者コンテストのようなもよおしがあればこの作品を課題にしたら面白いだろう。例えば見田宗介(真木悠介)氏は『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』の第2章で次のように書いている。《『春と修羅』の賢治にとってZYPRESSENとは、いちめんのいちめんの諂曲模様のうちに歯ぎしりゆききするこの修羅としてのおのれの生を、一気に焼きつくし、否定し、浄化し、昇華し、聖玻璃の空に向ってその意志をもってまっすぐにつきぬけてゆくあり方の、具象化に他ならなかったはずである》。ZYPRESSEN(ツュプレッセン)はドイツ語。「糸杉」を意味するZYPRESSEの複数形。この一語をめぐって考察するだけでもかなり面白い。英語にすればCYPRESS。「春と修羅」を読み解く上でのキーワードである。

植田敏郎氏は『宮沢賢治とドイツ文学』の中で賢治さんがZYPRESSENを最初にみたのはアンデルセンの『絵のない絵本』(内田新也訳『無画画帖』)であると推論している。《Zypresseは象徴としていろいろな意味を含んでいることは、たとえばアト・ド・フリース著『イメージ・シンボル事典』(大修館書店、昭59)を見ても明らかである。一方では生命、豊饒を表すかと思うと、他方では死を表し、また死後の生命、不死、復活を表す》。←銀河鉄道が象徴しているものと重なる。

斎藤文一氏は『宮沢賢治の世界 銀河系を意識して』(国文社。2003年)の中で《賢治詩「春と修羅」は、法華経勧持品といっしょに読むのがいい》と云っている。勧持品の中にある二十行の詩には次のような言葉がある。《悪世中比丘 邪智心諂曲 未得謂為得 我慢心充満》。乱れた世の中になると知識人はよこしまでこびへつらい知ったかぶりでじぶんのことしか考えないのだと。《「いちめんのいちめんの諂曲模様」という一行などは、末法世界について歴史的ともいえる表現だ。しかも、諂曲の心を持つ一人の修羅こそ、余人にあらずまぎれもなく自分なのだとまで書いたのである!》と斎藤文一氏は評している。わたくしの読みは少しちがう。おれが修羅になったのは周囲が諂曲(てんごく)になっているからでその中でまっすぐ生きようとすれば修羅になるしかない。いかりのエネルギーをぶつける先がない男が4月の天と地を海のように見つめながら歩んでいる。てんごくが天国の裏返しになっている。阿修羅は帝釈天と戦う鬼神であり大海底をすみかとしている。人界の上に天界があるとするなら人界の下に修羅界がある。人をあいだに挟んで帝釈天と阿修羅は戦っている。修羅としてのおれが空を海として見るのにはちゃんとした理由があるのだ。

近藤晴彦氏は『宮澤賢治への接近』(河出書房新社。2001年)の中で諂曲模様について《幾分仏教用語めいた言葉を使って、自分の内心をも含めて世のひと全般に通ずるエゴイズムとおもねりの社会心理を表わしているのであろう》と解釈している。さらに修羅については《二十八部衆に昇格する以前の修羅をこれほど端的にリアルに具現した言葉は他に考えられない。興福寺の憂愁に満ちた修羅でなく、三十三間堂の瞠目した修羅を更に野卑にした形姿である。彫刻とちがって、血が流れ、激しい動きをする》と書いている。少しおおげさ。

大澤信亮氏は『神的批評』(新潮社。2010年)の中で《幼少からの彼の優しさが、後年のような社会変革へのコミットメントへ転回するには、法華経の、というより智学の日蓮主義を通過することなくしてはありえなかった》としつつも。賢治さんの資質としての暴力性について鋭く指摘している。もともと口も悪いし好戦的だった自分がいて。宗教指導者の影響を受けてそのような側面が引き出された。その逆もしかり。万人の成仏を目指すという理想。それは誰にでも起こり得る展開だ。そのうえで賢治さんは修羅になった人間の菩薩道を追究したのではないか。二面性や矛盾を解決する方法として。善悪両面がない人間はあぶない。生まれた時から一貫して聖人である人間なんていない。宮沢賢治という人物を考える時も同じ。いちど等身大に引き下ろしてから再び聖人化する必要があると思う。賢治さんも自覚のうえでは修羅として生きていたわけで。それでも菩薩になりたいと願い。なろうと努力した。少年賢治は農夫にバカヤロウと云ったり厳しい教師を生かしておかないと思ったり戦争は人口調節のために正当化されると考えた。それは別段おかしな事ではない。わたくしも同じだったし周りの人もそうだったし多くの人がそうだったにちがいない。それを変えようとした。変わった。そこに価値がある。修羅を性格であらわすとマケズギライ。他者に勝りたい願望のかたまり。そういう自覚があったということは嫉妬の炎がメラメラ。身を焼いて生きねばならなかった。父親に嫉妬し同級生に嫉妬し妹に嫉妬し同僚に嫉妬し宗教団体の指導者に同時代の文化人に思想家に嫉妬した。それをエネルギーにした。

松岡幹夫氏は『宮沢賢治と法華経』(論創社。2015年)の中で《賢治の超人主義を問題視したのは吉本隆明だったが、この超人主義は自虐の思想と一体とみてよい。賢治に関しては、煩悩に穢れた自己を嫌悪し自虐するところから超人願望が生まれている》とし。法華経と真宗のハイブリットに由来すると。《ジョバンニは、そのさそりのように「僕のからだなんか、百ペン灼いてもかまはない」と口にする。自虐的に献身する蝎を模範とする姿勢、また「僕のからだなんか」の「なんか」という卑下の響き。ジョバンニは強い自虐の意識を持ち、それゆえに数限りなく我が身を焼き尽くさんと超人的な実践を目指す》。果たして松岡氏の指摘は妥当だろうか。ジョバンニのオーバーな口ぶりはキャラの問題であって作者の信条を表明したものではないとわたくしは考える。そもそも人体は一回焼いたら終わるわけで実践などできない。たとえばの話をしてるだけ。それで超人だと評されたらみんな超人になっちまう。作者が童話の中で語る焼身幻想や自己犠牲は雪山童子や尸毘王などの仏教説話を念頭においた挿話の一つであると考えるのが自然な解釈だ。それを作者の願望とするのは少しあわてすぎ。その先を読ませたいと作者は考えていたにちがいない。小乗から大乗への橋渡し。焼身や犠牲よりも求道に主眼が置かれていると考えるべきであろう。ジョバンニは道を求めて走るのであって消えて無くなりたいとは思っちゃいない。

『現代詩手帖』1996年11月号。生誕100年の宮沢賢治特集を読む。天沢退二郎氏と西谷修氏の対談が面白い。《私は剣で泥の中や便所にかくれて手を合わせる老人や女をズブリズブリと刺し殺し高く叫び泣きながらかけ足をする》という賢治さんの「復活の前」を引用したあと。西谷修氏は次のように云う。
《賢治は戦争に、そういう生身の一つの実存として向き合っているわけで、そこからは当然、童話における自己犠牲の話やベジタリアンの話との関連が出てくることになります》
《これはまさしくバタイユが、イデオロギーでも、あるいはリアル・ポリティックスでもない次元での生存や戦争や宗教について考えたこと──それはバタイユの死後に出版された『宗教の理論』にまとめられています──とたいへん近いところがある》
一方の天沢退二郎氏は《ジョルジュ・バタイユの『文学と悪』の中に「文学とはついに見出された幼年時代である」という有名な一文がありますが、これは賢治とバタイユをつなぐ非常に大きな命題だと思います》と。『春と修羅』が出版された1924年が『シュルレアリスム第一宣言』が出た年であるという事に言及したあと。天沢退二郎氏は次のように云う。《24年という日付をもった詩篇をずっと読んでいくとそれがいかに重要だったかがわかるのですが、それは一つには「夜」の発見ということですね。それはシュルレアリスムで言えば無意識ということになります》。←「春と修羅 第二集」に収められた詩篇。賢治さん28歳農学校の教師をしながら詩作。
《1924年というのは最初の世界戦争である第一次大戦の後であり、ものを考えたり書いたりしている人間にとっては非常にショッキングな出来事だったことは間違いない。そのあとに精神の立ち直りを探らざるをえないところで、たとえばシュルレアリスムなどが大きな動きとしてあったと思うんです》
《そして24年というのはまた第二次大戦との谷間でもあって、賢治が24年詩篇を七、八年かけて作り直しているあいだにすでに時代は第二次大戦へと進行するわけです》
《そうした状況は賢治にも当然わかっていたはずで、第一次大戦と第二次大戦とのあいだで「夜」と向き合うということは、いきなり歴史主義的なところへ短絡したくはないけれども、やはり無視できないことだと思います》
この夏の宮沢賢治研究も新たな発見がいくつもあった。夜あるいて心象スケッチ。春と修羅第二集を繰り返し読んだ。より日記の要素が強く。肩の力が抜けた感じが良い。第一集の『春と修羅』を出版した大正13年の賢治さんの充実した生活。生徒を連れて北海道へ行ったり。自作の劇を学校で上演したり。忙しいほど詩が次々わいてくる。12月には『注文の多い料理店』を刊行。年末にはボーナスまでもらっている。どれほど希望にあふれていた事だろう。28歳という年齢もいい。そして8月27日。宮沢賢治生誕の日と寅さんの日は同じ日である。デクノボーとフーテンには共通点がいっぱいある。ふたりとも独身。妹をこよなく愛している。大きなトランクを持って列車に乗る。お人よし。故郷を離れてはすぐ戻って来る。帽子が似合う。「わたくし」を使う。修羅と帝釈天。


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