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時間による支配から人類を解放するための第二試論:『銀河鉄道の夜』で法華文学の本線に乗り換える宮沢賢治氏を例に。

ここでは宮沢賢治氏の〈第四次〉という概念をヒントに「時間による支配」との闘争を続けよう。


1.
入沢康夫氏と天沢退二郎氏が膨大な資料に分け入って議論を重ねた『討議『銀河鉄道の夜』とは何か』(青土社。新装改訂版。1979年)を読んだ。一つの作品に対してここまで興味を持続し細部にわたって検討していく行為そのものにまず驚かされる。宮沢賢治氏の原稿に直接触れることの出来た貴重な両氏ならではの推論の切れ味も真に鋭く適確である。一人でやるのではなく二人でやるというスタイルにも魅力がある。マルクスとエンゲルスのように。ドゥルーズとガタリのように。入沢・天沢による宮沢賢治研究は後世に多大な影響を与え続けるだろう。中でも『銀河鉄道の夜』が今ある形で読めるようになったことで我々が受けている恩恵は計り知れない。例えば宮沢賢治氏を中尊とするならば入沢氏と天沢氏が左右の脇士である。天沢−宮沢−入沢。名づけて銀河鉄道三尊。三氏に「沢」がついているのは偶然だろうか。さらに「天」「宮」「入」を「天満宮に入るなり」と読めば私たちは学問の道を究めることになるだろう。
2.
孔子の思想の中心には「仁」がある。仁が「義」や「礼」などを生み。人と人のあいだに調和をもたらすと考えている。この「仁」という字が「人」と「二」つまり「二人」と書くことはとても示唆的である。
仏教には「脇士」(きょうじ)という役割がある。水戸黄門に助さん格さんが付き従っているように。仏の左右には必ず菩薩が二人付いているのだ。例えば薬師如来には日光菩薩と月光菩薩が。阿弥陀如来には観音菩薩と勢至菩薩が。そして釈迦如来にも脇士がいる。それが文殊師利菩薩と普賢菩薩である。私はこの仏の従者が二人であるという事に深い意味を感じる。
『銀河鉄道の夜』もまた二人の物語である。主人公ジョバンニと幼なじみのカムパネルラ。二人の間には時間と共にすれ違いが生じている。それを修復するために出現するのが銀河鉄道である。そして二人には永遠の別れがある。しかしそれは新しい関係への始まりを示唆する別れである。
宮沢賢治氏には盛岡高等農林学校時代に出来た保阪嘉内氏という親友がいた。二人は共に文学と社会主義と農村改革に興味を持っていた。大正6年の7月。二人だけで岩手山に登り野宿をする。銀河のふりそそぐ夜空の下で二人はある誓いを立てている。その誓いの中身がどのようなものであったのかは明らかではないのだが。「みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」という童話の中の言葉にそれは示されているのではないか。
宮沢賢治氏と保阪嘉内氏は他に二人生徒を誘って四人で文芸同人誌『アザリア』を刊行。ところがその『アザリア』に掲載したエッセイがもとで保阪嘉内氏は学校から除籍されてしまう。さらに保阪嘉内氏は病気で母を失う。宮沢賢治氏は文通で彼に法華経の信仰を勧める。宮沢賢治氏から保阪嘉内氏に送られた手紙は73通ほど見つかっている。それに対して保阪嘉内氏からの手紙は一通も発見されていない。
しかしこの現象を私ははっきりと理解できる。信仰を勧める行為はいつだって一方通行。勧められる側はどう応えてよいか分からない。相手が友人であるからこそ。「うん。分かった」なんて簡単にはいかない。「信仰抜きに付き合えないのか?」と云えれば済むのかも知れない。しかしそれだと宗教を信じている人間を尊重していることにはならない。だから困る。そして黙るのである。
3.
片思いというのは人を饒舌にする。それが恋愛であろうと友情であろうと変わらない。まして信仰となれば。宮沢賢治氏という人を突き動かしていたのもやはりこの「信仰の片思い」であった筈である。『銀河鉄道の夜』を推敲しながら。宮沢賢治氏は何を思っていたか。手紙で伝わらないのなら歌にする。歌でだめなら詩を書く。詩でもだめなら童話にする。このエネルギー。その情熱をぶつけられる個人はたまったものじゃない。幸い。宮沢賢治氏はそれを万人にひらくという信仰を持っていた。
法華経は「皆成仏道」(みんなが成仏する道)を目指す経典である。「みんなのほんとうのさいわい」の事だ。それでもやっぱり人間だから一緒に進んでくれる誰かがそばにいて欲しいのである。
宮沢賢治氏には妹や弟がいた。その中でもとくに大切にしていたのはトシ(トシ子)というすぐ下の妹である。トシはとても聡明で兄の良き理解者であった。宮沢賢治氏が浄土真宗(宮沢家の宗旨)の「南無阿弥陀仏」から日蓮宗(国柱会)の「南無妙法蓮華経」に改宗した時も。家族の中で唯一信仰を共にしてくれたのがトシであった。そんなトシが病に倒れ。24歳でこの世を去ってしまう。
宮沢賢治氏の『春と修羅』にはトシの死を悼む詩篇がいくつも収められている。研究者によってはこのトシこそがカムパネルラのモデルであると考えている。私もそれはそうだろうと思う。カムパネルラは死者である。「銀河鉄道の夜」を書きはじめたのはトシの死の二年後。しかし創作と云うのはそう単純にはいかない。宮沢賢治氏にとっても一緒に進んでほしい人は他にもたくさんいたであろう。だから童話の中では一人でも実際にはたくさんのカムパネルラが存在していたのだと考えるのが自然だ。ブルカニロ博士もそれをジョバンニに教えている。
4.
法華経に大きな影響を受け「法華文学」の創造に使命を見出していた宮沢賢治氏は。どうしたら法華経の精神を分かりやすく皆に伝えることができるか。それと同時に。作品が単なる仏教説話であると思われないような加工を施す事に。並々ならぬ努力を注いでいる。それだけに法華経のテキストを何度も読み返しては推敲を重ねたのであろう。
法華経の第一章にあたる「序品第一」の語りの中心は文殊師利菩薩である。そして最終章の「普賢菩薩勧発品第二十八」の中心は普賢菩薩である。つまり法華経は物語の構成としても文殊師利菩薩と普賢菩薩に挟まれている。このことに宮沢賢治氏は当然気が付いていた。「序品第一」を仮に〈じょぼんだいいち〉と読んだとすれば。そこから〈ジョバンニ〉が。「勧発品」を仮に〈かんぱつぼん〉と読んだとすれば。〈カムパネルラ〉が。それぞれ連想されたとしても。そう遠くない気がする。このようなこじつけをしている研究者は私以外にはいないと思うが。私にはどうしてもそう思えて仕方がない。その上で物語の中心人物をラテン系の人名にするというアイデアは宮沢賢治氏らしい工夫であると思う。舞台を敢えて異国に移した。人名の由来は研究者によって様々解釈されているのだが本人が何も云っていない以上どれも「こじつけ」の域を出ない。
ジョバンニは活版所で文字を拾う少年である。「文殊師利」という名前と無関係ではないように私には思われる。カムパネルラは優等生で人気者。「普賢菩薩」という名に通じている。
さらに「脇士」に関連する話をすると。法華経の「見宝塔品」(けんほうとうほん)という章では七つの宝で飾られた巨大な塔が大地から出現する。この宝塔に乗って現れるのが多宝如来(たほうにょらい)で。多宝如来はこの宇宙の中でいつどこでも法華経を説く場所に登場し。それが真実であることを証明するという役割を持った仏である。そして釈迦如来を宝塔の中へ招き入れると自分が座っている席を半分あけて座らせるのである。つまり宝塔の中で釈迦と多宝の二仏は並んで座っている。ここでもやっぱり「二人」なのである。
ちなみにこの宝塔は巨大な塔なのに虚空に浮いている。機関車が宙に浮いてしまうという発想の源もまたここにあるのかも知れない。宮沢賢治氏はこの宝塔を銀河鉄道というメルヘンに仕立て直したのであるが。そうするとジョバンニとカムパネルラは釈迦如来と多宝如来を象徴していると考えてもよい。
日蓮は弟子への手紙の中で「釈迦多宝の二仏も生死の二法なり」(「生死一大事血脈抄」)と書いている。釈迦が「生の仏」なら多宝は「死の仏」。ジョバンニが「生」でカムパネルラが「死」である。「生」と「死」が一緒に旅をしている。これもまた法華経の重要なメッセージの一つである。そして『銀河鉄道の夜』の主題がまさに「生と死が一緒に永遠の旅を続けること」なのだ。
5.
『銀河鉄道の夜』の中のジョバンニとカムパネルラの二人は菩薩の次元では「文殊師利菩薩」と「普賢菩薩」となる。仏の次元では「釈迦如来」と「多宝如来」になる。このことを作者自身は一言も云っていない。しかし作品の推敲の過程がそれとなしにそれを気付かせてくれる。
『銀河鉄道の夜』初期形第三次稿から最終形に移行するプロセスで宮沢賢治氏は法華経の「二処三会」を取り入れている。「二処三会」とは釈尊の説法が霊鷲山(現実)から虚空へ移り再び霊鷲山(現実)へ戻るという物語の構成のことである。第三次稿では「ケンタウル祭」の描写から始まり「銀河ステーション」で現実から虚空へ移るのであるが。最後の場面で現実に戻るシーンはその前にブルカニロ博士との難解なやり取りがあるためにとても薄い。このブルカニロ博士の存在を削除する事でカムパネルラとの関係性が太くなる最終形に至って。ようやく「二処三会」の形式がはっきりする。最終形においては。まずカムパネルラと共に生きて過ごしていた現実があり。次に二人で銀河を旅する虚空。そしてそれに続いてカムパネルラが河に落ちて流されてしまった現実へと戻る。
現実のカムパネルラはザネリを河から救い出す。他者のために自己を犠牲にできる菩薩の振る舞いである。そして銀河鉄道の中でのカムパネルラとジョバンニは他の乗客よりも自由に旅を続けることのできる権利を持つ。これは仏の境界を示している。宮沢賢治氏はこの虚空を〈第四次〉という言葉に言い換えているのではないか。「二処三会」に当てはめれば。三次空間(現実)から幻想第四次(虚空)へ。幻想第四次(虚空)から三次空間(現実)へ。つまり宮沢賢治氏の〈第四次〉には〈仏界〉の意義が込められていると思われるのである。
6.
さらにカムパネルラの母の問題がヒントを与えてくれる。銀河鉄道に乗ったカムパネルラは《おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。》とつぶやく。つまり自分が先立ってしまった事で遺された母を深い悲しみの淵に追いやってしまった。その事を許してくれるかどうかが心配なのだ。この文脈から。カムパネルラの母は現実の世界に生きている。ジョバンニも《きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。》と云っている。ジョバンニの母が病気で寝込んでいることに比べてそう思っているのだ。
そして銀河の旅の終わりに差し掛かると石炭袋が見え。カムパネルラはきれいな野原を発見する。《ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。》と。
読者はここでこの「お母さん」を誰だと思うか。素直に読めば。カムパネルラは川で溺れて死んでしまった。そして銀河鉄道に乗って旅をした。しかし天上にはいかないで元の場所に戻って来た。と考えるのが自然なのではないだろうか。つまり「ほんとうの天上」である現実の世界(三次空間)に戻って来た。そして野原に集まっている皆の姿を見た。その中にはお母さんもいる。
入沢康夫氏と天沢退二郎氏による『討議『銀河鉄道の夜』とは何か』を読むと。ほんとうの天上にいる「お母さん」はカムパネルラの前世のお母さんになってしまう。「ほんとうの天上」の場所をどこに設定するかによって解釈は大きく変ってしまう。法華経の「二処三会」の文脈で捉えるなら。カムパネルラを彼岸から此岸へ戻さなくてはならない。宮沢賢治氏の意図が「法華文学」の創造にあるというラインで考えていけば。ジョバンニが目を覚まして現実に戻ると同時にカムパネルラも同じ現実へ戻ったのだと云わなくてはならない。ただし。元の母親のおなかに宿ったのか。それとも別の母親のおなかの中に行ったのかはまた別の問題である。
宮沢賢治氏の推敲はカムパネルラの菩薩の振る舞いに何かしらの意義を与えていく過程でもあった。死んだトシがまた自分の近くに生まれてくることも信じていたであろう。その他にも多くの死者と接している。死者たちが近くに感じられる。宮沢賢治氏にとっては銀河鉄道が法華経なのだ。
7.
研究者が『銀河鉄道の夜』の先駆的作品とみなす「ひかりの素足」という作品を検討してみよう。『討議『銀河鉄道の夜』とは何か』の中で入沢・天沢は「ひかりの素足」で言及される「お母さん」についてもやはり読み違いをしている。引用する。
《するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云いました。「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうここで学校に入らなければならない。それからお前はしばらくお兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」》
入沢・天沢は「お前の前のお母さん」の部分で宮沢賢治氏が「前の」を加筆挿入していることを確認している。両氏はこの「お母さん」がなぜか楢夫にとって「実の母」ではなく「前世の母」であると考えた。しかし。素直に読めば。大きな人が楢夫に見せようとしているのは楢夫や一郎のお母さんであることは明らかであろう。ではなぜ宮沢賢治氏が「前のお母さん」とあわてて加筆したのか。それは「大きな人」の視点から見れば楢夫はもうすでに次の世の人間だからであり。一方の一郎は現世の一郎であり続けているからだ。つまり楢夫にとっての「前のお母さん」は一郎の立場では今の「お母さん」なのである。兄弟がここで来世と現世に別れる重要な場面である以上。加筆は当然のことであった。もし「前の」がないとすればそのことをうまく読者に伝えることができない。
「ひかりの素足」は「峠」から「うすあかりの国」へ行ってまた「峠」に戻る。ここでも宮沢賢治氏は「二処三会」を取り入れていると云える。『銀河鉄道の夜』との違いは。一郎と楢夫は地獄を体験している。そして餓鬼界で苦しんでいる。「ひかりの素足」は「地獄界所具の仏界」あるいは「餓鬼界所具の仏界」を表現しようとしている。一方。ジョバンニとカムパネルラが見たのは天界である。「天界所具の仏界」を表現することが『銀河鉄道の夜』の主な役割であると云える。
具体的には。「ひかりの素足」では「にょらいじゅりょうぼん第十六」と「大きな人」が仏界の象徴である。『銀河鉄道の夜』の場合は「どこまでも行けるジョバンニの切符」と「銀河鉄道そのもの」(初期形ではブルカニロ博士)が仏界を表現している。
法華文学を構想していた宮沢賢治氏は法華経でしか説かれない仏法の法理である「十界互具」を童話の形で展開していくという壮大な計画を立てていたのではないだろうか。私はこの予感を抱きながらこれから宮沢賢治氏の童話を読み直してみたい。
十界:「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏」の十種の境界の事。
互具:互いにそれぞれを全部そなえているという事態。仏界の中に十界があるように地獄界の中にも十界がある。
「春と修羅」序の中の「(すべてがわたくしの中のみんなであるやうにみんなのおのおののなかのすべてですから)」という言葉がまさに「十界互具」の言い換えである。

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