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命を繋ぐ52本の水


店に入り、右奥の薬売り場へ急いだ。下段のクリーム色のスチール棚には、いつもならぎっしり並んでいる青い蓋の容器が1本もなかった。

店頭からマスクや消毒液などの衛生用品があっという間に消えてしまい、先が見えない不安に世の中が包まれていた約3年前。
新型コロナウィルスの感染拡大で、当たり前に使っていたものが全く手に入らなくなった。

それでも最初の頃はまだ「精製水せいせいすい」は購入することができた。精製水とは、医療現場でも使われるような、純度の高い清潔な水のことだ。

ところが、「100%のエタノールを精製水で薄めると手の消毒液に使える」と情報番組で紹介されるや否や、精製水までもが店の陳列棚から消えてしまった。

精製水が手に入らないことは、私の二女にとって、命に関わる一大事だ。


二女は筋肉が壊れていく難病で、現在は気管切開をしていて、人工呼吸器をつけながら生活をしている。その人工呼吸器の加湿器に使う「精製水」は、娘の生活には絶対に欠かせない。
呼吸器から送り込まれる空気と一緒に肺に入る水なので、かなり清潔でなければならないのだ。

青い蓋の500ml入り精製水を1日に1本は使うので、最低2週間分はストックするように、普段からドラッグストアでまとめて購入をしていた。しかし商品が買えないので、ストックは減るばかりだ。
だんだん心細くなってくる。

行きつけの店舗だけでなく、近隣のドラッグストアも探してみたが、精製水の在庫は全くなかった。
焦りばかりが募る。
家族や親類、友人だけでなく、娘に関わる医療従事者やご近所にも助けを求めた。
「もしも精製水をどこかで見つけたら買っておいてほしい」という我が家のSOSは、知り合いの知り合いにまでも広がっていった。

宝探しのように、皆が懸命に精製水を探してくれたおかげで、合計10本もの精製水が集まった。届けてくれた人の顔を思い出しながら、1本1本をありがたく使わせてもらった。

それでもいよいよ、あと数日ですべて使い切ってしまう状況が迫る。
夫が、

「市内と隣町の全部の店に電話してみるわ。」

と、片っ端からドラッグストアに電話をした。しかし思った通り、どの店舗も在庫や入荷予定は無く、全滅だった。

私も、精製水の製造会社に直接メールをしてみたが、個人的に購入することは不可だとの返信をいただいた。それをやり出したら、収拾がつかなくなるのだろう。同じ理由で困っている人がたくさんいることは、容易に想像できる。

かかりつけの病院にも精製水の処方を頼んでみたが、前例がないので無理だと言われてしまった。

他の人たちがどうしているのかを訊いてみたくて、定期点検でいつもお世話になっている人工呼吸器の業者さんに電話で相談をしてみた。

「代わりに白湯とか、ダメですか?」

という私の問いに、

「それでは滅菌にはならないので、絶対に使わないでください。人工呼吸器の加湿は、精製水か蒸留水を使ってもらわないと危険ですから。工場用のものなら代用できますが…。とりあえず、そちらに行きます。」

と応えて、かなり離れた街から我が家に駆けつけてくださった。途中でいくつかのドラックストアに寄ってくださったようで、手には精製水を3本持っていた。

「私の妹が東京の薬局にいるんです。東京なら精製水が手に入るかもしれないから、探して送るように、妹に頼んでみますわ。」

と笑顔でそう言って、3本の精製水を私に手渡してくださった。
そのあたたかい対応に、私は、唯一の希望の光を見た気がした。


数日後、大きな段ボールを抱えて、業者さんが汗だくで我が家にやってきた。箱の中を見て、泣きそうになる。
全部で39本の、さまざまなメーカーの精製水がぎっしり並んで入っていた。妹さんがあちこち探して、集めてくださったようだった。


これが二箱


私たちが暮らす街よりもずっと感染の広がっている東京で、緊急事態宣言下にも関わらず、妹さんは水を探し回ってくださった。しかも、見ず知らずの娘のために。
その妹さんの優しい気持ちと、業者さんの親切な行動力に、心から感謝をした。

それからしばらくして、病院が精製水を処方してくださることになり、水の心配はなくなった。
水がなくて困っている多くの声がやっと届き、病院も救いの手を差し伸べてくださったのだろう。

考えてみれば、娘のまわりには、常に数多くの衛生用品がある。

外出から帰った際に、娘のものを全て拭くための除菌シート、痰吸引のたびに使う除菌スプレーや消毒綿、胃瘻からの経管の栄養セットの消毒液。
マスクはもちろん、ビニール手袋も、きれいな水も、娘の生活には欠かせない。
これらが何かひとつ欠けただけでも、娘の安全な暮らしは壊れてしまう。

精製水が手に入らなかった経験から、娘のまわりの衛生用品が当たり前にいつも手に入るわけではないことを痛感した。
娘の暮らしを維持するために、日頃から充分に「まさかの事態」に備えておく必要があると思った。

そして、娘との日々は、身近な人だけではなく、多く人の支えで守られていることも実感した。支えてくださるまわりの人への感謝を忘れず、いざというときに助け合える繋がりを日頃から大切にしたいと、心から思っている。


娘の命を繋いだ「10+3+39本の精製水」を、私は生涯忘れない。



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