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お守りとしての本のこと

 このあいだ、ソファと机の溝で三角すわりをして、ソファと床のどちらとものうえにそれぞれ本を何冊か積み上げながら、次はどの本を読むのが自分の気分なのだろう、と思って季節と気候と自分の心やおなかの気分と文章のはじめを見極めていたら、ふいにパシャ、とカメラの電子音がしたので顔を上げると、「本の虫〜」と夫が楽しそうにわたしにiphoneを向けていたので、いとおしいなと思いました。

 今日はわたしと本の話をしようと思います。誤解があるといけないので言っておくと、読める数はさほど多くなくて、だから読書家でもなんでもなく、本がすきなだけです。読みかけて、放っておいている本なんかもあるよ(なにへの言い訳だろう)。

 わたしは本屋さんで本を選ぶとき、最初の一ページ目をめくって、目が合ったみたいな、その日の自分にぴったりくるように感じるものを買うようにしています(作者買いするときも、ハードカバーは装丁に惚れてしまうこともままあるし、全てがそうではないのだけど)(でも不思議なことに装丁がわたしの感性にぴったりきたものは、書き出しもすきなものが多い気がする)。中学生くらいのころからずっとそう。なかなか目が合わないときもあるし、目があった気がしたから手元に置いてみたのに心の底からすれ違っていくみたいな物語もあって、だから多分、あらすじを知ってから買うひとよりは、はずれのような気持ちになることも多いように思います(「こんな話だと思ってなかった!」みたいな。でもそれってなんて傲慢なの…)。長編と思って買ったら短編集だったことも何回かあるなあ。

 目が合ってわたしの手元に置いたとしても、それから読まれるまではなんと1年以上もかかる本だってあったり。その間にもあたらしい本がやってきて先に本棚に収まっていったり(読み終えた本は、だいたい本棚に並べる)。そして何度も読む本もやっぱりあります。家の中での本との出会いは、時が満ちるみたいな心地がする、あ、いま、という感じ。読み進めて、読み終えてからそう感じるときもあります。

 その選定は、出かける寸前にえいやっと机の上やワゴンの中から奪い去るように行われる日もあれば、夫が写真を撮った日のようにじっくり行われる日も、あります。もう一度出会う日。

 自分が言葉を探しているような気がしたら詩集を読むし、言い表せないなにかがおなかに渦巻いているような気がしたら物語を読む、落ち着けなくて図鑑をめくる日もあるし、安心したくなって、泣きたくなって漫画を読む夜も、前向きな気持ちで雑誌をめくる日もあります。

 かばんの中に本が一冊か二冊入っているだけで、どこへでも行けそうな気がするから、お守りなのかもしれないね。電車のなかで他の何にも注目せずに済むこと、ひとりのチェーンのコーヒーショップの隅っこの席で心細くなくいられること、わたし以外の物語を連れているということ、生きていくためのお守り。

 ひとのつくる世界や文章がすきだから、ツイッターもすきなのかもしれないなと今気づきました。noteやブログもそうかな。読ませてくださっている方々、心からありがとうございます。

 今日もとくに、結び方がわからないのでこの辺で終わってみるね。

 最近とても冷えませんか、きっともう冬の入り口にいるんだね、今年はゆっくり冷えていったから、紅葉のはじまりも終わりも、ヒートテックを着出すタイミングもなんとなくわからないままでいます、秋に読もうと思っていた物語も、読み終えないまま。

 冬には星がきれいに見えるので、眺めてときどき泣いたりしようね。

 それではみなさん、あたたかくておいしい晩御飯を食べてください。 

  


おいしいお茶をいただきます。