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大学

大学ってどんな所なんだろう。

高校生の頃、ふと思った。

元々大学なんて行くつもりはなく、クリエイター系の専門学校に行くつもりだった私は、人生で初めて「大学」という存在を真剣に考え始めた。

小学生の頃は「大学校」の略称だと思っていた。けど大学校はまた別で存在するのでどうや違うらしい。
中学生の頃は、高校の延長だと思っていた。けど自分の好きな分野を学べて押しつけの授業はないと聞いたのでどうやらそれも違うらしい。

高校生になった今は「大学」をどう捉える。「大学」の存在をどう捉える。「大学」に行って何をする。何を学ぶ。何が学べる――。

答えは出なかった。「大学」という存在を漠然としたイメージでしか捉えていなかった。けど私の夢を叶えるためには大学に行かなくてはならない。

私は国語教師になりたかった。国語の素晴らしさ、文の楽しさ、小説の尊さ、短歌の儚さ、「日本語」の綺麗さを生徒たちに伝えたいと思っていた。感受性を揺さぶりたかった。でも幾ら人一倍本を読んだって、人一倍文を書きしたためたって、人一倍歌を詠んだって、人一倍日本語を愛したって国語教師にはなれない。何故なれないのか、何故人一倍「国語」を愛しても教師になれないのか。理由は簡単だった。教員免許が必要なのだ。どんなに努力をしたところで、免許がなければ教鞭を執れない。逆に「国語」を愛していなかろうが、免許があれば教壇に上がれるのだ。その絶対的な価値のある唯一無二の存在を獲得するには、「大学」に行かなくてはならない。

まるで電車みたいだ。「自分の夢」という目的地に着くためにはこの路線に乗らなくてはならない。既に決められているのだ。国語教師になる為には「教員免許線」。保育士になる為には「保育士免許線」。教授になる為には「博士課程線」。厖大な量の路線が広げられてその中から自分がなりたいもの「自分の夢」にあった路線を探し出さなくてはならない。自由に選べるようで、決して自由ではない。

ここまで考えて、高校生の私は「大学」の存在についての答えに行き着いた。
「大学」は「駅」なのだ、と。

駅は駅でもターミナル駅だ。渋谷に行く為には山手線。水道橋に行く為には中央線。横浜に行く為には東海道線……。行きたい目的地を目指すには既に決められ厖大な量の路線から探し出さなくてはならない。しかも、自由に選べるようで自由ではない。全く同じだ。

決められた路線に乗るのは正直なところ癪ではあるが、決められているのだから乗らないと夢は達成できない。

その路線に搭乗する駅こそが「大学」という存在なのだと、私は思った。

それから2年が経ち、私は大学2年生だ。今でも高校生の頃に出した答えは変わらない。「教員免許線」に乗り、ゆらりくらりと目的地を目指す。きっと、無事に到着できるよう精進していきたいと思う。

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