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ヘボいやる気で生き抜いて

大学1年の夏、モテたいという理由だけで始めた珈琲。

始めた当時は、コーヒー味の水を生成しては、なんでこんなことになるのかと研究を重ねていた。けど、動画見たり本を読んだりするとそれなりにできるようになってきて、インスタントと肩を並べられるくらいにはややおいしく淹れられるようになった。

それから、数年後。

その当時のモテたいと言う若さは消え失せ、毎朝の習慣だけが定着し、せっせと珈琲を淹れ続けている。いまではもう味を研究したり、新しい味を求めていろんなカフェに行ったりすることはなくなってしまった。けど、たまーに気が狂って最高の1杯を淹れるため、3時間くらい本と動画と知識を入れまくるときがある。こういう突発的なやる気は、大体何かの締め切りから逃げるときの現実逃避の時間に訪れるので、やる気がないために出るやる気みたいなものであって、結局は何かしらの事から逃げているのだが、「なんでもやる気が出ていることはえらいことだよな」と自分を褒めて納得させる。

通常運転がこんな感じだから、なにかを猛烈な勢いで続けることができない。少しやっては立ち止まり、飽きてしまい、忘れ去り、たまに部屋の隅から出てきたそれを眺めてはなけなしのやる気が再燃する。その繰り返し。だから、そもそもなにかに猛烈なやる気を出すことはほぼないし、あったとしても突発性のものが多い。けど、最近はこんな自分も許せるようになってきた。続かない自分、息抜きが多くて長い自分、ヘボヘボなやる気の自分。でも、どこに向けてはわからんが何かに向かって足を前に出しているよなって。だからいいんだって。あと、突発的な物もなんだかんだ少しつづ前に進んでいるし、マイペースが大事だよねとも言うしと、自分に都合のいい言葉だけを並べ集め、理論武装し鎧を纏う。こういうとき、すこし自分が生きやすくなった気がするから不思議だ。

ぼんやり書いてきたけど、結局、もう自分にこれをやらなきゃということを課すのはやーめたって。ヘボいやる気で息抜いて生き抜こう。そう思った。きっとこの結論も単発的で、来月には違うことを言っているに違いない。最初から一貫性なんてものを僕に期待するほうが間違っている。自分に期待しないという開き直り方も悪くないでしょ?って思うのです。

生き抜き(息抜き)方くらい自分で決めますから。