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傷とどう向き合うか

「集団行動苦手だよね?」「あいつは変な奴だから」「冷たいよね」
これらの言葉を何度も何度も言われてきた。言った本人は、大抵軽い気持ちで言うけれど、そういう言葉が蓄積して心をグサグサ刺していく。それらの言葉は忘れられず、傷は残り続けるし、いっこうに癒えない。誰かの好きをメチャクチャに否定し、誰かの事を自分に見えている一面だけで決めつけて判断して、その隠れた真意や影の努力、見せていない部分を見ようともしない。こういう無自覚の暴力が身近にも世の中に溢れていることを最近痛感する。
 そもそも人間は、様々な場面に応じて仮面(ペルソナ)を使い分けて生きている。相手が自分に見せている顔がその人のすべてではないことがほとんどだ。僕の知っている優しい人達は、いつも周りの人間に大丈夫なふりをして、僕にだけちょっと辛いんだよね、とか、あの人のあの言葉、実は結構グサッと来たんだよねと話してくれる。その人達は誰かに何かを誤解されても反論しない。反論しても相手はそれを聞いてくれないし、火に油を注ぐことになるだけだと知っているからだ。一言でいうと、諦めているのだ。その人に理解してもらうことを諦め、自分の中にその嫌な感触をとどめて消化しようとする。しかし、その嫌な感触はどうやっても拭えずに心にこびりついていく。
 こびりついた嫌な感触や言葉の暴力で傷ついた心は、簡単に癒えたりしない。ふと思い出して、傷に手を当てては、辛い思いがフラッシュバックする。こうやって染みついた痛みをどうすれば取り去ることができるのだろうか。この問いの答えを探すために様々な本を読んだ。カウンセラー本、臨床心理学者の哲学本、お経、エッセイ、小説。救いになりそうなことが書いてある本を片っ端から探して読みまくった。けど、どこにも単純明快な答えはなかった。なかったが、傷とどう向き合い、どう癒してくことができるのか、どう癒してきたのかをたくさん知ることができた。
 傷は、どれだけ見えなくしたってなかったことにはならない。が、向き合い方次第で、それを克服したり、次の作品の原動力にできたりする。クソッたれ!!も時にパワーになり得るのだ。ひとの傷との向き合い方でものすごく好きだったのは、共感もしないし、肯定も否定もしないというものだ。ただ話を聞いて、その人が何かに傷ついたり嫌だなと思ったりしたという事実を確かにあったのだと認めること。とても難しいことだけれど、これをしてもらえると、誰かの事を傷つけることなくその事実から来る痛みをすこし和らげることができる気がするのだ。
 こころをグサグサ刺してくる人間はうじゃうじゃいるけれど、傷を癒してくれる人間はほとんどいない。傷をなかったことにはできないが、どうにか分け合って、一緒につらい夜を乗り越えていけたとしたら、それはとても素敵なことだと思う。

久しぶりにモヤモヤが言葉になったので、書きました。

以上