恋は執着

時に人は何か夢中になるものと出会う。味気ない灰色の日々を極彩色に輝かせる何か、それが人間であってもなくても、趣味でも嗜好品でも、とにかくそれは確実に喜びを得られる幸せの象徴となる。
近年推しやオタクが社会的にも容認されるようになったのは、多くの人にとってそれが娯楽以上の意味を持ち始めたからかもしれない。

それを心に浮かべるだけで嬉しくなる。もっと欲しい、もっと触れたい。その想いはもう、恋だ。しかしそれが手に入らないとき、あるいは過剰に摂取すると、正気を保てず生活が破綻する、そうなったらそれは中毒または依存である。恋する対象が変化するのではない、それを想う自分が常軌を逸する。美しく見えても所詮は執着、程々に身を引くかこの頃流行りの「依存先を増やす」で対象を分散させるのが良いのだろうか。

何かに夢中になる時、視野は狭まり状況全体の把握が困難になるが、そもそもそうして何かから目を逸らすことが隠された本来の意図だとしたら。
きっかけは、退屈さかもしれない。なぜ日々が虚しいのか。それは自分の生き方に満足していないから。なぜ満足出来ないのか。本当の望みに目を背けているからではないか。いやだいやだ、そんな話は聞きたくない。そんな内的葛藤を打ち消してくれるのが、恋かもしれない。

ではなぜ私は他でもないそれに恋したのか。圧倒的な魅力で目の前に現れて、私の世界を広げ、見方を変えてくれたそれに。偶然ではないはず、なんなら人生全てと思えてくる。しかしその物語は思いが強いほど対象とは分かち合えない。叶わぬ願い、片想い。次第に心は冷静さを取り戻す。自分のものにはならないなら、ただ変わらずにそこにあってくれるだけでいい。身を滅ぼそうとする強迫の火は消える。

生き甲斐なんて、要らないのかも。ただ淡々と今に満たされて生きる。マインドフルネスでも始めようかな。そうして立ち戻る日常は前と変わらずそこにあり、少しだけ諦めが深くなる。だがそこには密かな悟りと予感がある。人生は面白い、きっと私は再び恋に落ちるだろう。

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