小説『闇に堕ちにて、空に溶けゆく』7/30(火) 【第32話 Advance forward】
私が言葉を失っていることに気づき、
今度は、直子が話を始めた。
直子「私が、こっちに帰ってすぐの日曜日に、
お母さんと2人で、買い物に出かけたときに、
お母さんから、その話は聞いたんだ。
私も、何となくだけど、お父さんとお母さんの
雰囲気が、以前と変わったような気がしてて、
それで『何かあったの?』って聞いてみたら、
お母さんが、話してくれた。
で、お母さんに言ったんだ。
『確かに、大ケガするほど酔っぱらうことは、
良くないけど、でも、お父さんにそんな行動を
取らせたのは、お父さんに対するお母さんの、
配慮が足らなかったからだよ』って、言った」
私は驚いた。あのエピソードを知れば、
間違いなく私が、批判の対象だと思っていた。
なのに、まさか、直子がそんなことを思って、
洋子に言ったとは思ってなかったからだ。
私の反応を気にすることなく、直子は続けた。
直子「定年で環境がガラッと変わる事に対し、
お父さんにだけ、変化を求めるんじゃなくて、
周りも変わらなきゃ、いけないんじゃないの?
って思った。
だから、お母さんには、
『色々と考える事はあるんだとは思うけど、
お母さんからあの日のこと、ごめんなさい、
って謝ってみたら?』って言った。
お母さんは何も答えなかったけど」
父親と娘の関係は家族の中で俯瞰的にみると、
決して、接点が深いものではないと思ってる。
それは、うちが特別なものということでなく、
どこも同じようなものだと思っている。
そんな娘が、まさか私の行動に理解を
示してくれているとは思っていなかった。
とは言っても、そんな娘の意見を盾にとって、
自分の行動を正当化するつもりなどはない。
やはり悪いのは自分だ。私は口を開いた。
隆「ありがとうな。でも、どう考えても、
やはり母さんが謝ることではないよ。
悪いのは父さんだ。素直に母さんに、
感謝の気持ちを、伝えることができるよう、
父さんが変わらないとな。
実は最近、病状の方はだいぶよくなってきて、
通院頻度も、毎週から隔週に変わったんだ。
焦りはよくないって事をわかった上でだけど、
自分の気持ちを言葉や行動で表せるように、
父さん、頑張っていくよ。ありがとうな。」
その言葉を聞いた直子は、黙って頷き言った。
直子「そうだね、でも焦らないでね。
いつもと違う環境になるのもいいと思うよ。
そういえば、お父さんが聴いていた Groove、
お母さんも興味ありそうだったよ。
お父さんの音楽の趣味、かっこいいって。
2人でライブに行くのもいいんじゃない?」
直子の提案に、確かにそれはいいかもしれない
と思った。ふとカフェ柱の時計に目がとまり、
ブースの予約時間が迫っている事に気づいた。
そのことを、直子に伝え、店を出た。
私に向かって直子が「練習、頑張ってね」
と声をかけてくれた。
駅から徒歩1分の3階建ての雑居ビルの2階が、
レンタル防音ブースだ。簡易式トイレのような
外見の防音ブースが、10個、並んでいる。
受付のような立派なものがあるわけではなく、
ドアを開けると、一つ机が置いてあるだけで、
そこに従業員の男性が座っている。
かれこれ1か月以上ここを利用しているので、
従業員とも顔なじみになった。
「あ、佐藤さんこんにちは。もう使えますよ。
あ、佐藤さん、このあいだもう少し高音が、
ハリのある音にならないかなあ、って
仰ってたじゃないですか?
このリード試してみます?
今まで、佐藤さんが使ってのは、2 1/2(2半)
でしたけど、一度、3を試してみません?」
そう言って、店員は、プラスチックの
ケースに入ったリードを箱から出した。
このレンタルスペースは、近くにある楽器店が
運営している。なので、サックスのレンタルや
消耗品のリードも販売している。
私も、橋口から、サックスを譲り受けたあと、
一通りのものは揃えてはいたのだが、ある日、
リードが切れていて、ここで買った事がある。
せっかくの提案だから試してみようと思って、
財布を出して、500円払おうと思ったが、
「あ、料金はいいですよ。私が勝手に
おすすめしてるだけですから。
使ってみてから、もしこのリードが
気に入ったら、購入下さい。
でも佐藤さん、本当に、上達されてますよね。
あ、ごめんなさい、ここは防音なんですけど、
どうしても、音が少し外には漏れてくるので、
佐藤さんのサックス、聴かせてもらってます。
そろそろ、人前の演奏とか、どうですか?
実は、うちの店の、管楽器担当者でユニットを
組んでいるんですが、もしご興味があったら、
一緒にやりませんか?
リード2人、ペット2人、ボーン1人で、
あとはドラムとベース、ピアノという
編成なんです。前までは、クラリネットが
もう一人居たんですけど、彼が、
家庭の事情のため実家の金沢に帰っちゃって。
クラとソプラノサックスだと音域が近いから、
良い感じになるんじゃなると思ってるんです。
あ、でも無理強いをするわけではありません、
興味あれば、いつでも声かけてください。」
私は店員に礼を言い予約したブースに入った。
これまで、仕事という世界しかなかった私は、
定年を境に、1日にして、その世界を失った。
その後は妻との世界しか自分にはなかったが、
音楽をきっかけに、自分の世界ができつつ
あることに気づいた。
前に進める自信が、心の中に少し芽生えた。
(第32話 終わり)次回は8/1(木)投稿予定
★過去の投稿は、こちらのリンクから↓
https://note.com/cofc/n/n50223731fda0
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?