小説『闇に堕ちにて、空に溶けゆく』8/6(火) 【第35話 Pride】
翌朝起き、リビングに顔を出すと、
既に洋子と直子はリビングに居た。
私が、起きてきたのを見て、直子が言った。
直子「お父さん、おはよう。昨日言ってた
Grooveのチケットを、予約しておいたよ。
電子チケットだから、LINEでリンクを、
お父さんに、送っておいたよ。」
その言葉を聞いて、スマホを開き見てみると、
LINEの通知が来ていた。そこにはリンクと、
パスワードが貼ってある。
リンクを押してからパスワードを入力すると、
日時、会場名、座席番号が表示された。
私は、キャプチャーをとりスマホに保存して、
直子に礼を言った。
洋子は、直子にどんな服を着ればがいいのか?
と聞いていた。直子は何でもいいよと笑って
答えた。朝食が終わると洋子は仕事に出た。
私は洗濯を担当し、直子は、掃除をはじめた。
直子も医師から「適度な運動をした方がいい」
と言われていたこともあり、最初のうちこそ、
直子が全ての家事をしていたが、私と分担する
ようになっていた。
寒さが厳しくなってきて、家事のうち洗濯を、
私がやる事が多くなっていた。一通りの
家事を終え、直子は洋子に頼まれた買い物に
出かけていった。
私は、ソファに座りながらタウン誌にあった、
弦月催眠療法医院に電話をしてみた。
興味本位だが、あれこれ聞かれる事もなく
あっさりと、昼前の予約がとれた。
私は、コートを羽織り、出かけた。
地図を見てその場所に行くと洋館だった。
本当に、ここで合っているのか?
と思ったのは、想像と少し違った外観に加え、
入口にある看板にあった
「クレストムーンクリニック」の名前だ。
ただ、その下には、小さい文字だがはっきり、
弦月催眠療法医院とも書かれていた。
催眠療法というと自分に限らず、
どうしても、警戒心が先に立つだろうから、
少しでも精神的ハードルを下げるために、
英語の名前のほうを押し出しているんだろう、
と思った。
ただ、厳密に言うと弦月は半月をさしてるが、
クレストムーンは三日月だ。
単なる翻訳ミスか、それとも半月をあらわす、
ハーフムーンより、クレストムーンのほうが、
お洒落と考えたという理由だろうと予想した。
いずれにしても、ここで間違いなさそうだ。
建物に入ると受付のようなものが一応あるが、
誰もいない。私が声をかけると、奥のほうから
若い女性が出てきた。予約した旨を伝えると、
奥にある診察室を案内された。
その診察室の内装は病院に似つかわしくない、
薄暗い空間だった。
ただ、似つかわしくない、とは思ったものの、
催眠療法という特殊な分野であると考えれば、
これが催眠がかかりやすい調光かもしれない、
ぐらいに思った。
私が席に座るとすぐに先ほどの受付の女性が、
向かいの席に座った。事務員だと思ってたが、
その女性が医師だったようだ。
にこやかでもなく、親しみある印象ではない。
ただ落ち着いた口調は、何故か心が落ち着く。
その女性医師は、20分ほどかけ、今の症状や、
悩み、私の環境などを細かく訪ねてきた。
城東医大病院での診察での医師の反応と違い、
私の言葉に相槌をうったり、共感するといった
リアクションは、全くない。
一通りの質問が淡々と終わると、女性医師は、
手元のスイッチで、照明をもう一段暗くした。
静かな声で「リラックスして、力を抜いて」を
繰り返すと、徐々に、意識が遠くにいった。
催眠に入ってから、どれだけ時間が経ったかは
わからないが、肩を、ゆっくりと揺すられて、
意識が、徐々に、この世に戻ってきた。
そして遠くのほうから、女性の声も聴こえる。
「あの時のあなたを自信を持って取り戻して。
きっと奥さんも、あの頃のあなたを尊敬して、
あの頃のあなたに戻ってほしいと思っている」
その言葉が、後半にいくほど、音量を上げて、
私の耳に入ってきた。そして、その女性医師の
「はい」という言葉を聞いて、更にもう一段、
意識が鮮明になった。
女性医師が発した、「お疲れ様でした」
という言葉により治療が終わったと認識した。
催眠療法は、思っていたよりも
怪しいものではないと思った。
とは言え詳細な記憶はない。
催眠と眠りは違うのか、正直、すっきりした、
という感覚というよりは、どちらかと言えば、
ボーッとした感覚に包まれている。
ただ体がだるい、疲れたという感覚ではない。
しかし最後に聞こえた「あの時の、あなた」
という言葉だけがやけに頭の中を回ってる。
あのときとは、定年退職前の、バリバリ仕事を
していた時のことだろうか?等と考えながら、
歩いていると、後ろから「佐藤さん」
と声をかけられた。
振りかえると、広告代理店時代に
部下だった、新田の顔があった。
このあたりに営業に来ていたらしい。
新田は、次のスケジュールが迫っていたので
立ち話しかしなかったが、何度も、
「佐藤部長が居なくなって、今、大変ですよ。
戻ってきてくださいよ」と言っていた。
60歳前にして、会社から再雇用の話はあった。
ただ、自分が居続けることで次世代移行への
妨げになるかもしれないないという思いから
その打診は断った。
新田の言葉は、半分以上は、社交辞令だとは、
思ってはいるが、定年後、半年以上経っても、
部下であった新田に、乞われるということは、
素直に嬉しく、また多少の自信にも繋がった。
(第35話 終わり)次回は8/8(木)投稿予定
★過去の投稿は、こちらのリンクから↓
https://note.com/cofc/n/n50223731fda0
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