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小説『闇に堕ちにて、空に溶けゆく』7/18(木) 【第27話 Reason to life】

サックスを、再びはじめるという心の変化は、
自分の中で、決して小さいものではなかった。

ただ、その心境の変化があったからと言って、
洋子との接し方を変えるため、自らの行動を、
変えるということはなかった。
 
というより、心境の変化により、
鬱病が快方に向かえば、
自ずと行動が変わるはずという、
ある種、第三者的な思考が働いたように思う
 
 
鬱病と診断された事は、良かった面もあれば、
悪い面もあったと思う。こういった、
ある種の第三者的思考は、後者にあたる。
病気を全ての原因や言い訳にすることだ。
 
逆に、良かった面は、これまでの自己評価は、
職場という枠組みや、価値観に基づくもので、
その中で、自分を“強い人間”と評価していた。
しかし決してそうではないと気付けたことだ。
 
そしてこういったことが、自分だけに起こった
特殊なことだと思っていたが、
実は「定年鬱」という言葉があると知った。
 
更にもう一つ良かった面は、
私の中における、妻の存在の大きさに
気づけたことだ。
 
その一方で、その大きさゆえ、
洋子との関係が望まない
方向になってしまうと、
どこまでも追いつめられ、
そして関係が悪化するという、
言わば因果一如の状態である。

そんな心理状態もありサックスを始めた事を、
洋子には言うことができていない。
 
サックスは家で練習できる楽器ではないので、
最寄り駅近くにあるレンタル防音ブースを、
週2回借りて、練習するようになった。
 
高校時代は、サックス担当ではなかった。
とは言え、吹奏楽部をやってことがある人には
わかるだろうが、遊びで担当以外の楽器を、
吹かせてもらうことはあった。
だから吹き方もわからない、
という状態ではなかった。
 
また、サックスの運指は、半音キーを除けば、
基本的にリコーダーと一緒だ。

だから、音さえ出せるようになれば、
どちらかと言えばだが、
サックス演奏者がトランペット演奏するより、
トランペット演奏者がサックス演奏する方が、
やりやすいのではと思う。
 
練習曲は、ケースに入っていた“枯葉”にした。
ジャズのナンバーだ。私は橋口が入れたまま、
忘れていた楽譜だと思い、すぐに連絡したが、
実は、練習曲用にと、入れていたものらしい。
面倒見の良さは、高校時代と同じだ。
 
実は、橋口はその後、容態が急変していまい、
帰らぬ人となってしまった。

それを聞き、流石に、形見にもなる
サックスはお返しますと、
息子さんに申し出たのだが、逆に、
「父のためにも使ってほしい。
楽器は演奏してもらって初めて価値がある。
佐藤さんには、親父の分まで、
音楽を楽しんでほしいです」と言われた。
とにかく楽しもうと、思った。
 
“枯葉”を練習する中で音の出し方というより、
タンギングでのアクセントの取り方について、
何かヒントが欲しいと思った。
吹奏楽は主にクラシックだが枯葉はジャズだ。
 
楽譜は読めるのだが、楽譜にある情報だけで、
その曲を再現できることは、決してない。
元の演奏を聞いたがやっぱりリズムの取り方や
アクセントなどが、今まで私が通っていない
音楽にあると感じた。
 
この曲を再現するためには、
もう少しジャズを理解する必要がある
という結論に辿り着いた。そんな思いの中、
YouTubeで動画を見ていて、偶然見たのが
Grooveというジャズユニットだ。
 
編成は、ソプラノサックス、テナーサックス、
トランペット、トロンボーン、ドラム、
ベース、ピアノ、ギターという8人編成だった

こういったジャズユニットで
ソプラノサックスがいるという編成自体が
珍しい。リードを2人置くとしても、
普通はアルトとテナーだろう。
 
また演奏が、素晴らしく心に響いた。
このGrooveの演奏動画に枯葉もあったのだが、
自分とこんなにも違うものなのか?と思った。
私はその動画を、何度も何度も見た。
 
そんな自分に対し、定年後、ここまで何か、
一つのことに、のめり込んだことがあったか?
と自問した。

間違いなく、はじめてのことだ。
そして、そのモチベーションはどこにあるか?
再び自問した。
 
音楽を奏でるのが楽しい、それも間違いない、
ただ、それだけではない。

自分の思ったような演奏ができるようになり、
自分を表現したい、それも間違いではない。

ただ、その表現は、誰に向けたものか?
すぐに、答えは出た。それは、洋子だ。
 
洋子に演奏を捧げる、それが、ゴールであり、
私を突き動かすモチベーションだと自覚した。
 
(第27話 終わり)次回は7/20(土)投稿予定

★過去の投稿は、こちらのリンクから↓
https://note.com/cofc/n/n50223731fda0

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