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小説『闇に堕ちにて、空に溶けゆく』5/11(土)【第1話 それぞれの闇】

暗闇は、私達の視界を奪っただけでなく、
音のない世界を目の前に広げた。

裕奈の隣から伝わるのは、真横にいるだろう、
拓也の呼吸だけだった。
それは音というより空気の振動として感じる。
裕奈の斜め後ろの少し離れた場所にいるはずの
隆の呼吸は伝わってこない

五感を奪われた空間なのに、
正面に莉子という少女がいることを、
何故か感じとることができた。
 
光と音が奪われている空間の中では、
時の流れすら止まっているようだ。
裕奈は、自分の感覚が
研ぎ澄まされていく事がわかった

全神経を、莉子がいると思われる
正面に向けて集中させている。
なのに不思議と心の中では翔との日々が
まるで映画の予告編のように流れている。

いや、翔との日々が心の中で流れてるからこそ
精神を維持できる気もする。
その時、闇を切り裂く、莉子の声が聞こえた。

莉子「もうこんなこと、
終わらせなきゃいけない、
そうに決まっている」

思っていたより低く、そして、
うっすらと聞き覚えがある声が響き渡った、
そして、同時にした大きな音と
莉子ではない、少女の低い呻き声が混じって、
部屋中に響いた。

その後、振動波のようなものが
体と顔に当たるのを感じた。
ケガをしてないか確かめるために
頬を触ると、ぬめりを感じた。

暗闇に視界を奪われてるはずなのに、
ぬぐった左手を目の前に掲げる。
顔に痛みはないが、暗闇でも
手に暖色の液体が付着してるのを感じた。

思考が混乱しているなか、
横から、拓也の声が聞こえた。

拓也「だから言ったじゃない、、、
って、そういうことだったのか」
そう言った拓也の思考は、
2か月前のあの日の朝に連れ戻された。

 
 
今日、10月21日、まだ冬には早いはずだが、
かなり冷え込んでたので
マフラーと少し厚手のコートを
引っ張り出して通勤した。

病院に着いた拓也は、自席に深く腰をかけて、
カルテを眺めていた。
「眺めている」という表現は、とても適切で、
書いてある情報は何一つ頭に入ってこない。

今日、病院に来てすぐ、
先輩の外科医、佐藤の退職を正式に聞いた。
医師不足が叫ばれ久しいが、
拓也が大学時代に思っていたよりも悲惨だ。
今日もオペが4件入っている。

しかし、今日が特別多いというわけではない。
昨年、後期研修期間を終えたばかりだが、
毎日、これくらいのオペがある。

外科医を選んだことに特段の理由はなかった。
年収がいいというだけだ。
拓也は元々、確固たる信念を持ち
医師になったわけではない。

地元で、開業医をしている、父親の影響だ。
小さい頃から成績は良く、周りからの期待を、
幼い拓也も理解していた。
それに抗うほど他にやりたいこともなかった。
 
コーヒーを飲みながら、ただ眺めているだけの
カルテをめくっているとドアがノックされた。
拓也の返事を待たずしてドアが開いて、
女性が顔だけ出して言った。


晴香「辻本先生、巡回の時間です」
拓也は返事することなく、晴香の顔を見た。

昨日、10月20日に、一夜をともにした晴香は、
お世辞にも若くはない。
今年40歳になる晴香は、拓也より11歳年上で、
この病院の看護主任だ。

正直仕事ができるわけでなく
テキパキとこなすタイプではない。
一回り年下の拓也もイラつく事があるが、
勿論それを言葉には出さない。

いつも笑顔を絶やさないイメージがあるが、
ただ、それだけだ。
その笑顔も今朝に限っては、
自分との親密さのアピールに思えた。
ただ、それも自分が勘ぐり過ぎているだけ
とも感じた。

普段と変わらないと言えば確かにその通りだ。
現に、部屋には、自分と晴香しかいないのに、
仕事以外の言葉はない。

拓也は席を立ち、巡回に向かった。
その後、休憩をはさみながら、
17時過ぎまで、オペが続いた

 
最後のオペが終わり自席に戻った。
オペが終わっても、仕事が終わりではない。
患者の病室を回り、術後状況を確認して
今後の治療方針をカルテに記入する。
一通り書類を書き終えると19時を過ぎていた。
 
自宅は、病院から徒歩で15分程の場所にある。
この日は、帰りに行きつけのイタリア料理店に
立ち寄ることにした。

普段は、ほとんどコンビニで済ませるのだが、
昨晩に続いて、2日連続で立ち寄った。
それは何かを期待するかのようだった。

店内はカウンターとテーブル席が8席だけで、
こじんまりしている。
店内は、拓也の他は、中年夫婦が一組だけだ。

拓也は、カウンター席に座りトマトパスタと、
サラダ、ワインを頼んだ。
病院から自宅の帰り道にあるという立地から、
しばしば利用するが、
2日連続で店を訪れたことは今までなかった。
 
(第1話 終わり)次回は5/14(火)投稿予定

★過去の投稿は、こちらのリンクから↓
https://note.com/cofc/n/n50223731fda0

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