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読み切り小説『ホイッスル』

『8月12日 AM8時 パリ
シャルルドゴール空港にて』

街中が、昨晩の喧騒の余韻に包まれる中、
私はシャルルドゴール空港の搭乗口に居た。
朝一番の飛行機で故郷であるモーリタニアに
戻るためだ。

モーリタニアはアフリカ大陸の西岸に位置し、
国土の大半はサハラ砂漠が占める。
そんな地理的な特徴もあり、
決して豊かな国ではない。

そのモーリタニア国内において、
圧倒的な人気を誇るスポーツがサッカーであり
国内にスーパーD1というリーグもある。
私もかつては、このリーグに所属する
プロサッカー選手だった。

かつてはモーリタニアのユース代表に
選出されたこともあるが、
プロになってからは目立った活躍もなく、
更には、ある事件もきっかけとなり
20代半ばで現役を引退した。

その後、指導者の道を志しかけたが、
その過程で”審判”という職業に惹かれ
国際審判を務めるまでになった。
いや、正確に言えば昨晩まで務めていた。

閉会式が行われている昨晩、
私はアポイントをとっていた
協会の幹部に会い、辞意を伝えた。

私は純粋にスポーツを愛している。
今回のオリンピックが特別ではないだろうが
SNSを中心に、”スポーツ以外”のことで
盛り上がった大会という印象がある。

一体、いつからオリンピックは、
こんな風になってしまったのだろうか?

昨日、協会があるパリ中心部の建物内で
偶然、顔を合わせた、日本人審判の
”よしみ”が教えてくれたのだが、
日本では、ある女性タレントが、
オリンピックを引用したSNSでの発言が炎上し
芸能活動休止にまで追い込まれたらしい。

この出来事自体、私には何の関係もなく、
興味もない。ただ、”騒動の渦中にある”
という点においては、私も同じかもしれない。

ちなみに、日本人審判の山本よしみは、
とってもチャーミングな女性だ。
彼女に対し悪い感情を抱く人は居ないだろう。

だが、私が”騒動の主役”になったあの日以降、
彼女と顔を合わすことを避ける自分が、
心のどこかに居た。
その理由は、彼女が日本人だからだ。

しかし私自身、日本人に対して悪い印象を
持っていたわけではなかった。
いや、むしろ、その逆だ。


『日本での衝撃』

国際審判を務めるようになってから、
様々な国の人と接する機会が増えた。
その中で、日本人に対する尊敬については
私の中で別格と言える。

それは同業の審判やナショナルチームの
選手やスタッフの素晴らしい
メンタリティは勿論、日本人の多くに
培われている”精神”に対する尊敬からだ。

4年前、私は国際試合の審判を務めるため
はじめて日本を訪れた。
そして、ある試合の後、宿舎に戻るため、
身支度を整えてる時に財布がないことに
気づいた。

恐らく試合前、付近をウロウロしていたのだが
その時に落としてしまったのだろう。

一応、スタッフに伝えはしたが、
この時点で、私は財布のことは諦めていた。
モーリタニアだけでなく、世界中どこでも、
落とした財布が戻ってくる事などないからだ。

幸いにして、会場から宿舎までは、
主催者が準備してくれたバスで帰れること、
また、クレジットカードなどは、
ホテルの金庫に保管していることもあり、
それほど深刻な状況でもなかった。

バスが到着し、乗り込もうとしたその時、
遠くから大声を出しながら走り寄る、
男性スタッフと、子供の姿が見えた。

何事かと見ていると、バス乗車口に居た
もう一人の日本人スタッフが私に向け言った。

「レイダさん、財布、あったそうです!
あの子が持っているみたいです。」
英語を話せる日本人スタッフが、
走り寄る2人の言葉を通訳してくれた。

私の前まで来た小学生ぐらいの男の子は
お辞儀をしながら、私の財布を差し出した。
その子の顔は見覚えがあった。

試合前、スタジアムの前のキッチンカーで
応対をしてくれた子供だった。

私は、そのキッチンカーでコーヒーと
ホットドッグを買ったのを覚えていた。
恐らく、その男の子の両親がやっていて、
その男の子は手伝いをしてたのだろう。

男の子は息を切らしながら、
私に向かい、真剣な目で語っていた。
そして、その内容を通訳から聞いた私は、
「この少年は何者か?」と思った。

どうやら私は、キッチンカーのカウンターに
財布を置き忘れてしまったらしい。
そして財布の存在に誰も気づくことなく
試合も終わり、店じまいとなった。
その片付けの時に、この少年が財布に気付き、
更には、私の顔を思い出したらしい。

そして少年は私が首から下げていた
スタッフカードも覚えていて、
自分で関係者を駆けずり回り聞いて、
この場にたどりついたらしい。

そして、少年はずっと、
「届けるのが遅くなってすみません、
せっかく日本に来てくれたのに、
日本の悪い思い出になってないですか?」
と口にしていた。

私の感覚からすると、置き忘れた時点で
その財布を盗られとしても、
それは明らかに自分の責任だ。

モーリタニアでの感覚からすると、
従業員からすれば財布を見つけたらラッキー、
それを持ち主に返そうとは、
まず思わないだろう。

この少年のように、駆けずりまわって探すなど
私の想像できるものではない。

私は驚きのあまり、頭に浮かんだ疑問を、
そのまま少年にぶつけた。
しかし、少年は困りながら返した。

「なぜ?と言われてもわからないですが、
落とし物を落とし主に返すのは
当たり前の事なので。
それにスタッフカードをつけていたので、
外国から来られたことはわかっていて。
外国で財布なくしたら
誰だって不安じゃないですか?
だから一刻も早く届けたいと思っただけです」

この少年の言葉を、周囲の日本人は、
誰一人、特殊なものとして捉えてなかった。
この日本人のメンタリティに触れて以降、
私の中で日本人は特別な存在になった。

その日本のナショナルチームの試合で
主審を務めることは、私にとって、
嬉しいことに違いなかった。
私は最高のジャッジをしようと誓った。
それは自分の信念に決して”ウソ”をつかない
ことと同義であった。

それゆえ、あの事件は起こった。
それ以降の騒動の中で、無意識のうちに
一方の”当事者国”である日本人のよしみと
顔を合わさないようにしていたが
試合の3日後、ホテルのロビーで
彼女に出くわした。

彼女は、いつも通りの優しい笑顔とともに
私に話しかけてきた。

「レイダ、あなたのジャッジは何も
間違っていなかった。
ルールの解釈は私たちの仕事じゃない、
それは協会の人たちがやったらいいこと。

私たちレフリーは、目の前で起こった事実を
正確にとらえ、ルールに照らしあわせること。
だから、あなたは胸をはるべきよ」

私は、よしみの言葉を聞きながら、
13年前の、ある試合を思い出していた。


『黄金世代』

翌年のU20 サッカー世界ユースの
地区予選も兼ねる
アフリカU20ネイションズカップで
我々、モーリタニアは予選を初突破し、
ネイションズカップ初出場を果たした。

手前味噌だが、モーリタニアにおいて、
我々世代は、”黄金世代”と呼ばれていて、
私も、その代表チームにDFとして
名を連ねていた。

絶対的なレギュラーというわけではなかったが
同じセンターバックで、当時、ユース世代での
世界最高峰リベロと言われていた、
アベイドとのコンビネーションの良さを買われ
7割以上の試合に先発出場していた。

アベイドは圧倒的な身体能力に加え、
いわゆる”天才肌”のプレースタイルで
守りにおいて危険の”芽”を摘むだけでなく
後方からのビルドアップと、機を見ての
攻撃参加から、彼の代名詞とも言える
強烈な左足でのミドルシュートで、
何度も、このチームを勝利に導いてきた。

このアベイドと、フランス出身で、
モーリタニアに帰化した
技巧派FWのフォファナの2人で、
大半のチャンスを作り出してきた。

私と同じセンターバックには、
アベイドと並び称される名ストッパーの
マフムードが居るのだが、
二人とも”前に出る”タイプでもあるため
このコンビは、後ろに”穴”をあけてしまう
場面が多く見られた。

私は、アベイドとは子供の頃から
同じチームでプレイしていた。
その頃から、私はDFだったが、
当時、アベイドはFWだった。

国内の試合では圧倒的存在だったが
国際試合だと”前に張る”彼のところまで
ボールが回らなかった。

そのため年代ごとのナショナルチームでは
彼は徐々にポジションを下げていき
U17ナショナルチームで、
攻撃的リベロの地位と、名声を確立した。

いずれにしても、私はアベイドのプレーを
完全に理解していた。
というより、その仕草を見れば、
彼の次のプレーが予想できた。

彼が上がるときには、私は決して前に出ない。
彼がビルドアップの空間を必要としていれば
私はあえて相手のFWに近づき、
彼に対するプレッシャーを軽減していた。



このネイションズカップは8か国が参加し
トーナメント形式で行われる。
翌年開催のワールドユースで、
アフリカに割り当てられた参加国数は
「3」のため1回戦を含め、2回勝てば、
世界への切符を手に入れることができる。

その大切な初戦のスタメンに、私は、
”相棒”のアベイドとともに名を連ねていた。

このチームは、アベイド、フォファナの
絶対的な攻守のエース2人の
チームであることは間違いなかったが、
一方で、他のメンバーも身体能力、戦術眼、
技術のすべてにおいて、これまでの世代より、
一段、高いレベルにあると言われていたし、
私もそれを実感できていた。

とは言え、それは過去と比較しての話であり
強豪が集うネイションズカップでは、
基本的に”守り”の時間が大半を占める
ことになると、私も含め、多くの人が
予想していた。

しかし予想に反し、初戦のブルキナファソ戦は
我々のボール保持率が50%を超えていた。
ただそれは相手に”持たされていた”面もある。

サッカーはそれほど多くの点数が入る
スポーツではない。
その特性から、こういった
ノックアウト方式のトーナメント初戦では、
”点を取られない”事が最優先だからだ。


いわゆる膠着状態が70分も続いた。
こういった展開だと、”相棒”のアベイドが
痺れを切らせて”前がかり”になることが
しばしばあったが、この日は違った。

彼はキックオフ時と変わらない、
高い集中力を、特に守備に割いていた。
彼も、この試合の”意味”を理解している。

後半20分、アベイドからの速いグランダーを
中盤に下がって受けたフォファナは
相手ボランチを左手で抑えながら
右足のアウトでボールをピタリと止めた。

そして、そのまま右に体を反転させながら
中に向かってワンタッチでボールを押し出す。
疲れが見える相手ボランチは無理せず、
ボールとゴールの間に自分の体を移動させた。

と、その次の瞬間、フォファナは、
左足の踵で、相手ボランチの死角の位置に
パスを出した。
そこに走りこんだMFのカマラはダイレクトで、
相手DFの裏に浮き球のパスを出した。

そのボールの行き先にフォファナの”相棒”
FWのディキアラが走りこんでいた。
相手のDFより体半分、前に居る。

”ビッグチャンス”

誰もがそう思った次の瞬間、
浮き球パスのワンバウンド目が
予想しない軌道を描き
ディキアラより相手DFに近い方へと跳ねた。

相手DFは体を投げ出しながら、
漠然と、前に大きくクリアをした。

その当てもなく蹴り上げられたボールに
先ほどパスを出したカマラが反応して、
相手とヘディングで競り合った。

守備的MFのカマラが”攻撃モード”から、
一瞬のうちに”守備の人”に戻った。
チーム全体が高い集中力を保っている証拠だ。

そして、このチームの中で
最も高い集中力を維持しているのが、
アベイドであることは、
次のプレーで証明された。
それは、彼の”犠牲”を持ってして・・・

ヘディングのこぼれ玉は、運悪く、
ライン際に張る相手右MFの足元に収まった。
相手FW”2枚”が、疲れから戻ることができず
最終ライン付近に残っていた。

一人は最終ラインに吸い込まれ、
アベイドの前にポジションを取っている。
そしてもう一人のFWがタッチライン方向へ
いわゆる”ダイアゴナルラン”で動いた。

その動きを一瞬、横目で確認したアベイドの
左手が肘の高さまで上がった。
私は、彼のこの仕草を何度も見てきたので、
次に起こる行動はすぐにわかった。
”オフサイドトラップ”だ。

ボールを持っている相手選手からの
センタリングを予想したアベイドは、
ダイアゴナルランで走るFWに対応する
左SBの位置と
前に出たカマラのカバーで、
中盤の”底”でスペースを埋めていた
右SBの位置を一瞬で認知した。

その結果、彼は自分が”最終ライン”だと
確信した。ちなみにアベイドは振り返って、
私の位置を確認はしていなかったが、
私が、アベイドの動きに連動しているという
確信があったに違いない。

アベイドの予想通り、ボール保持する
相手MFがセンタリングのモーションに入った。
彼は体を一歩、相手ゴール方向に動かした。
次の瞬間、相手がゆるやかな弧を描いた
センタリングをあげた。

アベイドの後ろに居る私は、そのボールの
軌道を追いながらも、副審に目が行った。
副審は、ゆっくりとフラッグをあげた。

その光景を見た私は、動きを止めてしまった。
私の右斜め後ろに居る主審のホイッスルが
鳴るはすだと思ったからだ。

しかしホイッスルの音がすることはなかった。

こういった場面ではFW選手も副審の動きを
確認することが一般的だが、前半から
アベイドへのプレッシングで体力を消耗した
相手FW選手は、その余裕もなく、
ボールの落下地点めがけて走っていた。

アベイドは動きを止めてはいなかったものの
相手から、体半分、”遅れた”位置からの
スタートだった。

更には相手の右サイドからの
攻撃に備えていたため、
スタートダッシュで蹴りだす足が、
利き足とは逆の右足だった。

高い集中力を保っていたアベイドだったが
足に蓄積された疲労は紛れもなく、
”体半分”のビハインドのまま相手を追った。

後方からのセンタリングに対して、
走りこんでいた相手FWは、ダイレクトで
シュートをするモーションに入った。

”間に合わない”

そう思った次の瞬間、アベイドは大きく
右足を投げ出した。
それは、時には”悪魔”と呼ばれた
彼の強靭な左足の踏み込みにより、
体半分の遅れを"チャラ"にしたものだった。

ただ、私はその踏み込みの瞬間、彼の左膝が、
少し外側に”ブレて”いるのがわかった。

相手FWが浮き球をダイレクトにとらえた
シュートは恐らくゴールの”枠”に向かった。
しかし、その軌道に投げ出された
アベイドの右足に当たったボールは、
大きく前に跳ね返った。

私はアベイドに駆け寄ろうとしたが、
その視界に入った味方GKの躍動する目に
再びボールの行き先を追った。

当てもなく蹴りだされたボールの落下地点を
めがけて走り出していたのは、フォファナだ。

タッチラインの手前に落ちようとしていた
ボールをフォファナは体を投げ出しながら
左足でダイレクトでボールを捉えた。

そのボールは、相手DFと、相手GKの間に
向かっていった。

相手GKは、ゴール前で”立ちんぼ”の状態で
前のスペースを埋めることはできない位置だ。

そして相手DFラインは”3枚”残っていたものの
真ん中の選手が完全に前がかりになっており
中央後方にぽっかりとスペースが空いていた。

そこに走りこんでいたのは、
フォファナと同じくフランスからの帰化組、
ファビオ・ソウだった。

彼は右SBだったが、この場面の前に、
カマラのカバーで中盤の”底”に居た。
ソウはフォファナが追いつくことを信じ
走り出していた。

両サイドのDFが中に”絞っても"、
ソウに追いつくことができない位置だ。
ソウはいわゆる”独走”状態だった。

「チーム全員が勝利を目指し、
仲間を信じて、足を止めず、
全力でプレーする。」

"黄金世代"と呼ばれた我々チームの
本当の”強さの理由”があらわれたプレーだ。
そんな心の躍動が信じたものは、ゴールだ。
しかし、次の瞬間、私の前に現れた光景は
予想していないものだった。

主審のホイッスルが鳴った。

意味がわからず主審の方を見ると、
我々のゴールに近い位置に居る副審を指し
オフサイドのジェスチャーをしている。

「なぜ、今ごろ、止める?」

その思いのまま、主審に抗議しようとしたが
味方GKが、アベイドの名前を呼ぶ声がした。

振り返り自陣ゴール方向を見ると、
アベイドは顔を歪めてうずくまったままだ。
彼は左膝を抑えていた。

結局、アベイドは交代となった。
ピッチから担架で運び出されるときに、
彼はキャプテンマークを私に差し出した。



『戦友の犠牲の先に』

彼と交代で入ったのはFWのダシルバだった。
監督の指示でカマラがDFラインに下がるが
右SBのソウを中盤に上げた3-4-3だった。

あれだけ膠着状態だった試合が、
このフォーメーションに変えてから2分後、
フォファナのゴールで均衡が破れた。

その後、ディキアラを下げて、
DFのマフムードが投入された。
その意図は明確だった。

「この1点を守り切る」
カマラはDFに置いたままで、ソウを再び
右SBに下げた5-3-2に変わった。

”人に強い"マフムード、カマラは必然的に
マンツーマンでつくストッパーとなり、
私が”リベロ"的なポジションになる。

ふとベンチを見ると、アベイドが膝を氷で
冷やしながら、私を見て”落ち着いて”
というジェスチャーをしたあと、
サムアップをして見せた。

私は右腕のキャプテンマークに手を当て
深呼吸をした。

それからの15分は、”耐える”時間だった。
幸いにしてバランスは崩れることがなかった。
元来、攻撃参加が好きなマフムードも、
今日はシンプルなクリアを心がけている。
チーム全員が、この試合の意味を理解してる。

そして私はベンチのアベイドを見て考えた。
アベイドのケガの具合はわからない。
次は難しいだろう。ただ、もし仮に、
その次の試合に出れるのであれば・・・

「アベイドが試合に出れば、
かなりの確率で世界に行ける」

この日の彼の成長したプレーぶりを見て、
私は確信していた。
彼が出るかもしれない2試合後に
繋げることが自分のミッションだと。

試合は90分を回り既に2分が経過、
恐らくロスタイムも残り3分ほどだ。

このタイミングで、相手のファールにより
センターサークル付近での
フリーキックになり、
DFラインとボランチでボール回しをしている。

相手のFWは、チェイシングするだけの
体力を使い果たしてしまったようで、
割と自由にボールを動かせる。

とは言え、この場面でも集中力を切らす人は
このピッチに居なかった、
一人を除いて・・

カマラからのパスを受けた左SBは、
相手のチェイシングを避けて、
ダイレクトで私にめがけてパスをした。

そのボールと私の間に、
黄色い服を着た人物が入ってきた。
彼はボールの方を見ていない。

黄色い服を着てボールと逆方向を
見ている人物の左足に当たったボールは
不規則な軌道でカマラと、
彼が対峙する相手FWの真ん中に転がった。

一足早くそのボールをつついたのは相手FWで、
そのボールはカマラの足に当たった後、
股を抜けて、ゴール前に広がるスペースに
ちょうどいいスピードで転がっていった。
そして追うはずのカマラが芝に足を取られた。

私が、このチームでリベロを務めるのは、
ほぼ初めてだった。
だが不思議と、私はこの時の状況を俯瞰的に
捉えることができていた。

・モーリタニアは”攻め”の選手交代の札は
 残り少ない
・90分を超えて、自分たちのパスサッカーを
 続けるだけの体力は残っていない。
(但し、相手も同じ)
・この準々決勝を勝てば、次で負けても
 3位決定戦で勝てばいい。
・アベイドとフォファナが揃ったときの
 今のチームは予選突破の実力がある。
・アベイドが出れるとすれば3位決定戦
・今このシーンを我々は”ラストピンチ”と
 捉えているが、我々以上に、
 相手チームは”ラストチャンス”と
 捉えていることは間違いない。
・だからプレーが途切れたら、
 相手の足が止まるはず

自分から見て左後方のスペースに
転がっていくボールと、
全速力で追う相手を見ながら、
私の視線の焦点は、相手選手の足元と、
ペナルティエリアのラインに合っていた。

「ここしかない!」

相手がボールに追いついて、
ボールを前につついた後、
ペナルティライン手前、
ボールがあった位置をめがけて、
私はスライディングをした。

私の足が、その位置に到達する頃には既に、
相手選手が2回目のタッチで、
ボールを前に進めていることは予想できた。

その時は、私の足が捉えているのは、
ボールではなく、相手選手が残した
左足だということも。

そして目の前で予想通りの光景が広がった。
恐らく、このプレーでレッドカードをもらう。

しかし、ペナルティエリア外からの
フリーキックは恐らく枠をとらえない。
ブルキナファソの選手で、この距離の
フリーキックが得意な選手は居ないことは
最初からわかっていた。

そのまま試合を終わると、
仮に次の準決勝に敗れたとしても、
3位決定戦にはアベイドが復帰し、
レッドで退場になった私と一緒に、
ピッチに立っている・・・

サッカーは激しいスポーツだが、
私は相手を傷つけようと思ったことは
一度もない。

だから、相手の”残り足”である左足を
軽く払う程度のイメージだった。

相手はイメージ通り、バランスを崩した。
しかし、予想と違ったのは、踏ん張って、
態勢を立て直し、再び走りだしたことだ。

主審はホイッスルを咥え、
今、まさに吹こうとした瞬間でとどまった。
そしてアドバンテージのジェスチャーで
プレイオンを示した。

後半20分、ソウが抜け出した
あのシーンでは見ることが出来なかった
ジェスチャーだった。

相手FWは態勢を崩しながらも、
体を投げ出し右足を振り抜き、
ボールを捉えた。

彼はボールの行き先を見ることなく、
そのまま転倒した。

相手FWの選手が追えなかった代わりに
私の視界は、しっかりとボールが
GKが伸ばした右手をすり抜けて、
転がりながらゴールに吸い込まれるのが
見えていた。

試合は1-1、振り出しに戻った。
そして、私は退場となった。

一人少なくなった状況だったが、
残りのロスタイム、延長戦とも、
ゴールシーンを許すことはなかった。
勿論、我々がゴールシーンをつくることも
なかった。

そして突入したPK戦は
4-2でブルキナファソが制した。

今でも、この日の、この試合は、
「モーリタニアが世界に一番近づいた日」
と言われている。

自分たちのサッカーで誇れることも、
そして足らないこともわかったのが
この試合だった。

ただ、それ以上に、黄色い服を着て、
ピッチに立っていた、あの人物、
主審によってコントロールされていた
という思いは拭いきれなかった。

勿論「人間がやることに”絶対”はない」
ということはわかっている。
ただ、アドバンテージで止める、
止めないといった基準は、
その人の中で確固たるものさえあれば、
ブレないはずだ。

もし止めていたなら、アベイドが、
あんな大けがをすることはなかったはずだ。
後に、彼の人生を狂わせる
きっかけになるようなケガを・・・・



『変わり果てたエース』


世界への切符を逃した私たちだったが
この戦いからフォファナをはじめとした
多くの選手がフランス、スペイン、
トルコなどのチームに移籍した。

それを横目に見ながら、私は引き続き、
モーリタニアでプレーした。
というより、私自身が
ヨーロッパでプレーできる実力がないことは
痛いほどわかっていた。

ただ、それに対し不貞腐れるようなことはない
自分の実力は、自分がよくわかっている。

そしてアベイドも国内に留まることになった。
ただ、その理由は、あの試合で負った
大ケガに、他ならない。

アベイドはチームドクターの助言をふり切り
あの日ベンチに残っていたが、実は、
そんな状態ではなく、左膝十字靭帯損傷の
重症だった。

結局、仮に準々決勝を勝って、
3位決定戦まで進んだとしても、
アベイドの出場は不可能だったのだ。

国内におけるアベイド人気は、
依然として高かった。
ただ幾度の手術を経て、復帰をしたが、
彼のプレーが、あの日を超えることは、
一度もなかった。

彼のサッカーインテリジェンスや、
嗅覚は衰えることは決してなかった。
ただ、脳の信号により彼が動き出す際の
スプリント力に、かつての面影はなかった。

そして左足から繰り出されるキックは、
十分に威力はあるが、以前の彼を知る人間は
それが同じ左足から繰り出されたものとは
思えないものだった。

それでも国内クラブは高額のサラリーを
彼に支払っていた。
勿論、広告効果もあるだろう。

ただ、その処遇をアベイド自身も当たり前と
思いはじめていたのかもしれない。
そんな彼は徐々に、サッカー以外のことへ
気持ちを傾けることが多くなっていった。


そんなある日、チームの練習から帰宅して、
テレビに映ったニュースに釘付けになった。
そのニュースで報じられた殺人事件で、
逮捕された容疑者の写真が映し出された。
その写真は、アベイドだった。

彼はサッカー選手をしながら、
投資関連の会社も経営していた。
そこでのビジネスでトラブルが発生し、
殺人事件に発展した、
と、このニュース番組は伝えている。

そのニュースが伝える内容が真実か、否か、
それは私にはわからない。
ただアベイドが投資の世界にどっぷりと
浸かっていたのは事実だった。
そのビジネスがあまりうまくいってない事も
伝え聞いていた。

だからと言って、彼がそれを理由に、
人の命を奪う人間かと聞かれれば、
首を縦には振らないだろう。

一方で、明確に否定できるほど、
最近の彼と接点がなかったのも事実だ。

あの日ピッチの上で、仲間を信じて、
力の限り戦った彼を思い浮かべれば、
そんなことは想像できない。

一方で、”今”の彼が、あの頃のままか?
と聞かれれば、それに答えるだけの
十分な材料は、自分の中にはなかった。

今の私には、目に映ったものを、
ひとつの”報道”として捉えること以外に
できることはなかった。

それから暫く、テレビの話題は、
このアベイドがかかわるとされる事件の事で
埋め尽くされることになる。

事情聴取などからアベイドが語る”言い分”が
明らかにされるが、驚いたことに、
彼は殺人自体は認めていた。

一方で背景にあるとされる、
”投資詐欺”については否定をしていた。
彼は”判断ミス”ではあるが"故意”ではなく
投資実態はあったと主張している。

正直、私にとっては、その事は
どうでもよかったのだが、
彼はその弁明をする際、必ず、かつての
アフリカネイションズカップの試合、
それも主審のジャッジについて言及した。

「時として試合には、
招かざる悪意ある登場人物が参加する。
その人物が、フィクサーとして
ゲームをコントロールして
その試合を自分の都合のよい結果に導き、
そして、それにかかわった人達の人生を
台無しにしていく。

あの日、ピッチに立った私は、
悪意あるフィクサーの手により試合の勝利と、
その後の人生で得るはずだった
すべての栄光を奪われることとなった。

今回、ビジネスで起きたことも、
あの日のピッチで起きたことと同じだった。

悪意あるフィクサーにより、再び、
私の人生の栄光を奪われそうになった。
私は、それを防ぐため行動を起こしたまでだ。

あの日、ピッチでは、残念ながら、
誰一人として、勇気ある行動をとらず、
その悪意あるフィクサーの虚言を受け入れた。
私は、同じ過ちを繰り返したくなかった」

多少の言い回しの違いはあるが、
どの媒体にも、このような主旨の、
彼の言葉が引用され、掲載された。

確かに、あの日、ピッチで主審にしつこく
抗議する選手は居なかった。
確か、ソウあたりが、主審に抗議はしていたが
その態度は極めて紳士的であった。

あのジャッジには、私を含め多くの選手が
疑問を抱いていたのは事実だ。
しかし、激しい抗議をしなかったのには、
二つ理由がある。

一つは、チームの大黒柱である
アベイドが負傷し倒れていたこと。

もう一つは、恐らく出場続行困難な
アベイルのためにも、その後、点を取り、
勝利する事を、誰一人諦めてなかったからだ。

実際に、その後、ディキアラの得点で
チームは先制した。

つまり、チーム全員が、既に次を見据え、
勝利を目指し、その行動を起こすことを
頭の中に描いていたからだった。
それはアベイドのためでもあった。

だから私自身も、この記事には
違和感を感じたものの、
敢えて、自ら、反論しようとは
思ってなかった。

しかし、日を追うごとに報道は激化し、
”当時の関係者”としての私に対して、
コメントを求めようと
多くの報道陣がクラブハウスに
押しかけるようになった。

私はノーコメントを貫く一方、チームに
迷惑をかけていることも自覚していた。

勿論、私に”非”があるとは思っていないが、
何かしらのコメントをすることで、
少なくとも、連日、クラブハウスに
報道陣が押しかけるような事態は
収束させるべきでは?という思いもあった。

特に、当時、クラブチームに対しては、
大きな感謝の気持ちがあったからだ。


『突きつけられた現実』

ユース代表から戻り、
クラブのトップチームに上がってからすぐ、
私はサイドバックにポジションを変えた。

センターバックとして、
決して”当たり”が強かったわけではなく、
ユース世代で通用しても、トップチームで
センターバックを務めるには、
”線”が細かったからだ。

またアベイドほどではなかったが、
DFとしては足元の技術、パスに優れていて、
当時の監督が目指していた、
最終ラインからのビルドアップで、
相手の”穴”を探し、そこを破る、
というスタイルにマッチしていた。

トップチーム昇格初年度から試合に出場し
年を追うごとに出場機会を増やしていき、
3年目には、不動のレギュラーとなった。

ちょうどその年は、
オリンピックイヤーだったが
23歳以下のナショナルチームに
呼ばれることはなかった。

それ以降もナショナルチームとは無縁だったが
諦めていたわけではなかった。

ちなみに、我々がワールドユース
アフリカ予選を戦った前年に
同じアフリカのナイジェリアで
ワールドユース本大会が開催された。

その大会でダークフォースとして
準優勝を果たしたのが日本だった。

当時、彼らが国内で”黄金世代”
と呼ばれていたことになぞらえて、
我々も、”黄金世代”と呼ばれるようになった。

だから、いつの日か、小野率いる、
日本の黄金世代と国際試合で対戦したい
という思いもあったので、
ナショナルチームを諦めることはなかった。

そんな目標を持ちながら、迎えた翌年、
トップチームの監督が交代になった。
新監督はフランス人で攻撃サッカーを志向し、
3-4-3のフォーメーションを好んで採用した。

このフォーメーションだと私は必然的に
右のストッパーになるが、
このポジションには代表チームの常連でもある
チームの守りの柱、アブドゥルバが居る。

彼は左足のキックに難があるため、
このフォーメションだと必然的に、
右ストッパーになり、私とポジションが被る。

チームの戦術変化により
自然と私の出場機会は減っていった。
それと反比例し、チームの成績はあがった。

ただ私は決して不貞腐れるようなことは
なかった。チームのために貢献できることを
力の限りやるだけ、という思いがあった。

私は右ストッパーだけでなく、
すべてのディフェンスと守備的MFの、
4つのポジションでプレーできるよう
練習を重ねた。

決して出場機会は多くなかったものの、
それがチームに貢献できることだという
それなりに強い思いがあった。

また監督はじめ、チームの首脳陣も、
そんな私に対し一定の評価を口にしてくれた。

長らくアベイドとコンビを組んでいて
身についたことだと、後々わかったが、
私には、相手の動きの特徴を覚え、
動きを”読む”スキルが高いことがわかった。

4つのポジションで練習するうちに、
そのことに気付いた。

私は、相手選手の動きの”クセ”や、
動きの特徴を、隠すことなく
チームメイトに共有をした。

当時のチームは、後に、
ナショナルチームの柱を務めるようになる
若手が台頭しはじめ、
私のポジションを脅かす選手も居たが、
そんな相手にも、隠すことなく伝えた。

そんな私の姿勢と、行動に対し、
当時の首脳陣は
「チームの勝利を第一に考え、
惜しむことなくチームに知識やスキルを
伝えていくレイダの姿勢こそ、
プロフェッショナルだ。
このチーム、そしてモーリタニアサッカーに
レイダは不可欠な存在だ」と言ってくれた。


私に対して迷わず、そんな評価を言ってくれる
チームスタッフの迷惑になってはいけない、
と思い、ある日、マネージャーに
アベイドの事件の件で押しかける
報道陣からの取材を受けることを伝えた。

それ1回きりとし、それ以降、練習場には
押しかけないことを条件としてだ。

練習後、クラブハウスの一角で囲み取材が
始まった。私から冒頭に、
「事件のことについては何も語る立場にない。
だから事件の事を聞かれても、
何も答えることはできない。
次に過去のアベイドとの出来事について、
事実について話すことはできるが、
事象に対し人それぞれの解釈がある。
私は自分自身の解釈についてしか
述べることしかできない。
その事を前提に、質問をお願いしたい。」

この後、記者から矢継ぎ早の質問が飛んだ。
あまり重要であると思えるものはなかった。
約束の時間が迫る中、ある記者が質問をした。

「あのネイションズカップにおいて、
審判のジャッジの背景に
不正があった可能性は非常に高いと言える。
その不正が原因でアベイド氏は大ケガを負い
その後のサッカー人生を棒に振ることとなり、
再び、過去の栄光を取り戻す可能性を
閉ざされ、あのような結果になることは、
誰にも逃れられないことだと思うが、
あなたはどう考えるか?」

この国には、我々”黄金世代”、その中でも、
特にアベイドの信者は多いと感じている。
彼も、その一人なのだろう。
私は言葉に気を付けながらも、
自分の考えを率直に伝えた。

「まず、冒頭にあった審判の不正云々に関して
私にはわからない。その上でだが、
審判のジャッジというものは非常に重要だ。

ただ常に自分の持っているもの以上を
出そうと選手がプレーをしている中で、
審判は常に、高度な判断を求められる。

その結果、時として、自分たちに有利に働き、
時として不利に働く。

それを踏まえ、最高の結果を出していくのが
我々プロの仕事だと考えている。

これは人生でも同じだ。
時として良いことがあるが、その逆もある。

運・不運で片づけるのではなく、
その環境を受け止め、その中で最善を尽くす、
それは恐らく皆さんも含め、
多くの人が行動していることだと思う。

自分に突発的に降りかかる環境変化を
逃れることが難しいかもしれない。
ただそれを受け止めた上で、
自分が最善と信じ、勿論、
何より正しい事を行動として貫けるかは、
その人の人生観そのものだと考えるし、
そこには、運命という言葉で
片づけてはいけないものがあると思う。

私はアベイドが再び、正しく、最善を尽くす
日々が訪れることを願ってやまない」

私の答えに対し、質問した記者自身も、
他の記者も、すぐに何かを聞く事はなかった。

その沈黙を見ていた、チームスタッフが
インタビューの終了を告げようとした時、
先ほどの質問をした記者が、私の答えに
くらいついてきた。

「レイダさんは、先ほど他の記者の質問に
あの日、ロスタイムでファウル覚悟で
相手を止めに行ったが、得点を決められた。
あれは相手が上回っていたし、
そのプレーを止めなかった主審の判断も
正しいものだった、と言いました。

まずファウル覚悟で止めにいくのが、
正しいことですか?
それは、相手にケガを負わせることも
本当は辞さないと考えていたのでは?

だとしたら、アベイドのように、
運命に振り回される側ではなく、
振り回す側に、あなたは立っている
ということじゃないですか?」

この記者は、私が言ったことを
全く理解していないのがわかった。
丁度その時、スタッフが取材終了を告げた。
私は、その場を立ち去りながら、
その記者に対して、一言、言った。

「あなたは何もわかっていない。
過去の事をいつまで掘り下げても
何も変わらない」
私なりの、彼へのアドバイスのつもりだった。


そのインタビューの模様は、
まわりの報道陣によって、面白おかしく
切り取られることになった。

・ファール覚悟のタックルで、
 相手がケガをするかもしれないが、
 あの日、私は、意図的に
 ファールで止めようとしたこと
・その過去の出来事を私は重要視していない
・そして、それらを曲解して、
 過去のケガに苦しむアベイドを
 理解しようとしていない

そんな論調で、翌日の新聞や、テレビを
賑わせることとなった。
予想せず、1日で”渦中の人”となった。

とは言え、本業のサッカーとは関係ないことで
私自身は、報道をそれほど重視してなかった。
しかし、事態は思わぬ方向に動いた。

その翌日、チームのマルティネス監督が
インタビューに答える様子が放映された。

そのインタビューで監督は「レイダの存在は
若い選手に悪い影響を与えている。
若手に対する彼の発言は
先日のインタビューのような思想を背景に
高圧的で、自己中心的だ。
我々のチームは、レイダを必要としていない」
と語っていた。

もしかしたら巧妙に編集されているかも
しれないが、話をしているのは紛れもなく
監督本人であることは間違いない。

この国では、報道も決して中立ではない。
金銭を渡し、報道側の意図するような内容の
インタビューをすることなど幾らでもある。

だから、このインタビューのことを
とやかく言うつもりはないが、
チーム首脳の私に対する評価の低さだけは
理解できた。

その後もしばらくは、この報道が続いた。
しかし2か月後には、政治家の汚職などの
話題にとってかわるようになった。

そして、更に、その3か月後、
その年のシーズンを終えた。
それと同時に、私はチームからの離脱、
そして引退を決意した。

色々、理由はあるが、喧騒から離れ、
純粋にサッカーを好きでいたい
と思ったからに他ならない。




『見つけ出した信念』

私は知り合いのつてで、
水産加工会社で働きはじめた。
サッカーとは別の世界だが
その仕事自体はやりがいもあり、楽しかった。

私は元来、何事にも全力で挑戦する性分だ。
仕事を覚えて、任せられることは楽しく、
日々の仕事に目標もあった。

サッカーを忘れようと思ったことは一度もなく
しかし、この頃は、新しい仕事の事を考える
時間がかなり長かった。

とは言え、サッカーは見るし、話しもする。
ある日、この会社の社長の息子が所属する
少年サッカーチームの1日コーチを頼まれた。
私に断る理由もなく、練習に行った。

その後も、何度か頼まれて練習に行った。
最初に行った時は、他のコーチの都合が悪く
コーチが他に誰もいなかったが、
それ以降は、他のコーチも居た。
なので、試合形式の練習では、
審判を務めることも多かった。

そして、そのうちに、コーチが所属する
アマチュアチームの練習試合の
審判を頼まれることも度々あった。

元々トップリーグでプレイしていたので、
試合の展開についてけないということはない。
ただ、審判の立場で試合を見ると、
選手としては見えてなかったものも
見えてくると気づいた。

それは、試合の「流れ」だ。
勿論、恣意的にルールを歪めることなどない。
ただスローな展開を早めるために、
早くリスタートをすることを促したり、
両チームがヒートアップした展開では、
わざと”間”をあけ、試合を落ち着かせたり。

審判の立場で、”見ていて楽しい試合”を
演出することは可能だと思った。
そして何より、観客をサッカーのプレーに
集中させるのは、ルールに基づき、
確固たる態度でのぞむことだ。

その信頼性が揺らぐと、プレー以外に
目がいってしまう。

過去のネイションズカップの出来事を
いつまでも引きずるつもりはなかった。
ただ、あの試合から学べるものもあった。
事象だけ挙げれば幾つもあるが、
その根本にあるのは、
・ルールに対し、誠実で、
 事実を正確にとらえる。
・自分の中の基準をブラさないこと
の二点だと、信じるようになった。


私はその後、水産加工会社を続けながら
審判の資格取得にも注力した。
サッカーという舞台をつくりあげる
スタッフの一人としての”審判”に魅力を
感じたからだ。

26歳でプロを引退し、審判の勉強を始めた。
そして3年後の28歳で、国際審判の資格を
取得した。その資格取得後、すぐに、
冒頭で触れた、日本での出来事を経験した。

その後も、多くの国際試合で笛を吹いた。
それが可能だったのは、水産加工会社の
社長や同僚の理解と協力があったこと、
そして私の中でも、この経験を活かす
イメージができつつあったからだ。

選手だけでなく、審判としての視点も
選手育成に生かすことで、
モーリタニアのサッカーが強くなる
のではないか?とイメージしていた。

かつてU20のアフリカネイションズカップに
私たちチームは出場したが、年齢制限のない
アフリカネイションズカップには、
それ以降も予選突破できてないでいた。

しかし、私が国際資格を取得した年から、
ネイションズカップに3回連続出場している。
とはいえ、グループリーグを突破できたのは
1回のみで、その1回も、トーナメントは
一回戦で敗退している。

もう一つ上に行くためには、そんな知見も
必要になってくると考えていた。

私が、フランスの地で”笛を吹く”ことは、
紛れもなく、モーリタニアのサッカーの
ためだった。自分自身も、もっと、
ワクワクするようなサッカーを目の当たりに
したいという思いも強くあった。

そして運命のめぐりあわせもあり、
そんな「ワクワクするサッカー」の試合の
主審を務めることに決まった。
その気持ちの高ぶりを抑えられない。

と、同時に、私の審判としての信念、
・ルールに対して誠実で、事実を正確に捉える
・自分の中の基準をブラさない
を決して、曲げないことも胸に誓った。



『あの日のエースと重なった影』

私の気持ちを高めた試合は、
サッカー大国スペインと、
”黄金世代”の由来にもなった日本との、
決勝トーナメント1回戦だった。

スペインは言わずもがなだが、
私は日本サッカーにも注目をしていた。

小野以降の世代でも、安定して優秀な選手を
輩出し続け、今や、チームの大半は、
ヨーロッパリーグ所属の選手で占めている。

そして偶然テレビで見た予選リーグの
イスラエル戦では、4年前、日本の地で見た
日本人の精神性が基盤にあるような、
規律ある試合運びだった。


この試合の主審を務めることは、
私のサッカー人生において、最も素晴らしい
経験の一つになることに疑いの余地はない。

その気持ちの高ぶりを抑えながら、
キックオフの笛を吹いた。

その試合、スペインの圧倒的なボール保持が
予想されていたが、試合が始まると、
ほぼ互角のボール保持率だった。

その構図は、かつて自分が出場した
U20アフリカネイションズカップ1回戦の
ブルキナファソ戦に似ていた。

試合は前半に動いた。どちらかというと、
うまくボールを運べないでいたスペインが
少ないチャンスをものにした。

高い技術とセンスが合わさって、
信じられないような美しいミドルシュートが
決まった。

この展開になると、追う日本が前がかりになり
スペインがカウンターで仕掛ける展開になると
予想していたが、日本はボールを保持しながら
決してチームのバランスが崩れることがない。

”無理をして”ではなく、”組み立て”からの
日本ゴールが生まれるような予感がした時、
その事件は起こった。

中盤の左サイドからのパスを、
いわゆるバイタルゾーンで受けた日本選手は
スペインの2人の選手が近づく前に、
その間をグランウンダーのパスを通した。

そのパスの先には、相手DFを背中に背負った
ホソヤというFWが居た。

彼はポストプレーのお手本のようなプレーで
ボールを受けた、、、
と、その時、ホソヤの左手が肘の高さまで
あがるのが見えた。この仕草は・・・・

アベイドのオフサイドトラップの仕草と
同じだ。勿論、偶然だろうが。
その仕草を見た私の神経が無意識のうちに
研ぎ澄まされていった。

恐らく、長年のアベイドとのプレーで
体に染みついたものだろうが、
手を挙げた選手の指先の動きまで、
勝手に目がとらえ分析している。

そして、私には、はっきり見えた。
その瞬間、ホソヤの右足が、
相手DFより前に置かれていたのを。

ただ私が笛を持ち、吹くよりも早く、
ホソヤは体を左に反転させながら、
右足を振り抜き、そのシュートは
ゴールに吸い込まれていた。

ただ私は自分の信念は曲げようとは
思っていなかった。
ジェスチャーでVAR判定を指示した。
ルール改正により、際どいシーンは、
VAR判定となっていたからだ。

ただ私は、その画像を見なくても、
ホソヤの足がオフサイドポジションに
あったことを確信できていた。

私の確信通り、VAR判定でもオフサイド
判定だった。その後の試合についても、
私は決して、信念を曲げず、自信を持って
笛を吹いていたつもりだ。

しかし、試合が終わると、私の判定が
日本のみならず、世界中で、
テレビやSNSを介して取り上げられ
話題になっていることを知った。
それは想像を遥かに上回るレベルだった。

あの判定自体、私は何も間違ってないと
言い切ることができる。
一方で、その前に、同じオフサイド判定で、
私はミスを犯していた。

私は確信をもってオフサイド判定したが
後から動画を見ると、それは間違いだった。
副審がフラッグを挙げていなかったことも
相まって話題となり、
ホソヤの幻の得点シーンと合わせ
話題にされていた。

私が尊敬する日本人に対し、謝るとすれば、
その前のオフサイド判定のミスにより、
私のジャッジに疑念を抱かせてしまい、
プレーそのものに集中できなくして
しまったことだ。

とは言え、私のサッカー人生において、
なぜか不思議な縁があり、
憧れさえ感じていた日本の試合で
起こったということが、
私の気持ちを揺らがしていたのも事実だ。

そして、このオリンピックに向かうため
モーリタニアの空港で受けた一本の電話が
更に、この出来事の捉え方の意味合いを
変えていた。


その電話は、アベイドの父親からだった。
あの事件があってから、アベイドは、
禁固刑を受け、収監されていた。

そして、その日、独房の中で、
アベイドが死んでいるのが見つかった。
その電話は、その連絡だった。

人知れず、黄金世代が終焉した瞬間だった。

心の片隅にあった、表現できない気持ちが、
偶然、ホソヤが取った、
アベイドそっくりの仕草と重なり、
私の集中力を、それまで経験したことのない
境地にまで高めた気もする。

その結果が、あの判定であり、
それが皮肉にも”黄金世代”の
名前の由来になった日本に対して、
不利に働くものとなった。


その試合の後、閉会式まで、
私の試合の予定はなかった。
本当は観光したり、他の競技観戦をする
予定だったが、激化した報道もあり、
外出自体を控えていた。

そのため考える時間はいくらでもあった。
そもそも自分が審判をやっているのは、
モーリタニアサッカーの強化に貢献したい、
という気持ちだった。

だとしたら、あのシーンについては、
私が、例えばジュニア世代の育成の場で
「ポストプレーの際は、足が出ないように
気を付けること」とでも教えるだろうか?
それは、絶対にないと自信を持って言える。

結局、事実を正確に捉えることに加え、
ルールに誠実なだけではなく、
解釈を加える必要があるのではないか?
と考えるようになった。

でも、その解釈という名の主観が入ったのが
あのアフリカネイションズカップでの、
アベイドの捨て身のクリアからの
ビッグチャンスになりそうなプレーを
止めたことに通ずるのではないか?

あの時、アベイドがゴール前で倒れていた。
プレーヤー保護の観点から、一度は流した
プレーを止めるという考えもなくはない。

しかしあの捨て身のクリアの時点で
次の展開まで読めていたとは思えない。
要は判断が遅れただけだと思うが
その言い訳の論拠に、"解釈"が入ることは
多分に起こり得る。

色々考えを巡らせたが、私の審判としての
信念に対する問いかけの答えは出なかった。
ただ一つ出た結論は、暫く、喧騒から
離れた位置に、身を置きたいということだ。


私は、自身の決断を持って、
FIFAの幹部にアポイントの電話をした。
閉会式翌朝には帰国予定なので、
閉会式の日にアポイントを取った。
国際審判員を退くことを伝えるためだ。

ただ、当然ながら、閉会式出席の幹部が
その日に時間を取れないことは
わかっていたので、恐らく、
フランス人の職員が相手だとは思っていた。

その建物に着き、受付で指示された階に上がり
ある部屋をノックした。
中からの返事を聞いて、私はドアを開けた。

そこに居たのは、協会の理事を務める、
日本人の田島幸一だった。
私はてっきりフランス人職員相手だと
思い込んでいたので、不意をつかれた。

田島は私にソファを勧め、自分も
その向かい側に腰を下ろした。
その隣には、フランス人通訳も座っている。
田島は、私に言葉を促した。

私はそれに応じて、国際審判員の辞意、
その決断に至った経緯を説明した。
相手が日本人の田島だったからではないが
私が抱く日本への尊敬も伝えた。
それを聞いた田島は、ゆっくりと口を開いた。

「レイダさん、あなたが考えた出した
結論なら、私が異論を挟む余地はありません。
また日本のことをそんなに言って頂いて
光栄です。

日本に対して、理解が深いようですが、
しかし、残念ながら、あなたの理解は
十分とは言えません。」

私は田島の言葉の意味が理解できず
首をかしげた。それを見た、田島が続ける。

「確かに、色々な意見が飛び交ってますが
私が思うに、あの試合で、
ゴールを揺らした回数は、
スペインが3回、日本が1回、
つまり、より多くの回数、ゴールを揺らした
スペインが勝利した。それだけです。

表面的なことは別として、多くの日本人が
その事実を捉えているはずです。
そして次は、相手より多くの回数、
ゴールを揺らしてみせると」

私は、田島の言葉が、心にしみわたった。
ただ、どう返していいかわらかなかった。
すると、田島は続けた。

「レイダさん、私は熊本の天草という
場所の出身です。その場所は、
有明海を挟んだ、長崎の対岸です。

レイダさん、長崎という場所にかつて
原爆が投下されたことをご存じですか?」

田島の問いかけに私は、頷いて返した。
田島は、それを確認して言葉を続けた。

「人間に対して原爆が投下された国は、
世界中で日本だけです。
私は、それを誰が悪いとか、
そういう話をするつもりはありません。

日本人に限らず、すべての人類が
消し去りたい過去だと思います。

もしあの日、原爆が投下されなかったら、
そんな思いをしたことがある日本人は
多くいると思います

そう思ってしまうことを否定しません。
しかし、その先に未来に繋がるものは
ないと思います。

この世界で起きていることは、
すべて、ある地点から分岐した結果です。
その分岐は二択かもしれないし、
三択かもしれないし、あるいは
もっと多い選択肢かもしれません。

そのうちの一つを選んだ結果が、今です。
ただ、もし違う選択肢を選んでいたら、
どうなったか?
残念ながら、それを考えることは無意味です。

その道ではなく、別の道を進んだ時点で
その分岐から先の道は消えているのですから。
少し大げさかもしれませんが、
「もし、こうだったら~」という未来について
考えることに対し、日本人は積極的でないと
思っています。

まあ、日本人全てが、原爆に対して
かかわりがあるわけではありません。
だから、私なりの持論の域を出ませんが、
表面的な論調は別として、日本人は、
過去の「たられば」に傾倒することに、
意味を感じないと思っています。

もし、原爆投下という事実に対して、
同じ「たられば」を繰り返したなら、
その先には「正解の出ない犯人捜し」と
「戦争の先にある悲劇を学ばない」という
決して望まない結果が見えるからです。

それよりも、次に向けて考えた時に、
間違いなく、スペインの方が、
日本より多くのゴールを決めた。
その事実を受け止めた上で、
次への原動力にしようと
考えていると思います。

きっと、あなたがはじめて日本で出会った
キッチンカーの少年も、
あなたの次の来日機会まで見据えたから
そのような行動をとったのだと思いますよ。

あ、すみません、一方的に話してしまって。
それに、少し、話が逸れましたね。

いつの日か、ワールドカップの場で、
それぞれの黄金世代の上に培った、
強い日本代表と、強いモーリタニア代表が
試合をすることを楽しみにしています。
その時、レイダさんは、監督なのか?
審判なのか? わかりませんが、
その日が来ることを楽しみにしています。

とは言っても、早めにお願いしますね、
私も歳なので」
田島は、最後はジョークを交えて、
笑いながら話を締め、握手を求めた。
私は、それにこたえ、田島の手を握った。



『フランス土産』

搭乗口に流れるアナウンスで私は、
昨晩の田島との心地よいやり取りの回想から
現実に引き戻された。
どうやら機材準備が遅れており、
搭乗が1時間遅れるらしい。

私はコーヒーを買い、ベンチに座り、
それを口に運んでいた。
と、その時、私の名を呼ぶ声が聞こえた。
その声の方向を見ると、そこには、
山本よしみが立っていた。
よしみは、私の横に座り、話かけてきた。

「レイダさんも今から帰るんですか?
私も今から帰るんだけど、
この空港、とっても広いですねえ。
検査場の入口間違えてしまって、
まだ、だいぶ向こうまで歩かないと
いけない。だから、ちょっと休憩」

そういって、よしみはおどけてみせた。
よしみもコーヒーを買って、
再び、隣の席に戻ってきた。
そして口を開いた。

「まだ、あの試合のこと気にしてます?
こんなこと言ったらなんですけど、
もう日本人は、誰も気にしてませんよ。

昨日、うちの甥が、動画を送ってきたんです。
うちの甥っ子、サッカーしてて
もう気分は、未来のオリンピックでしたよ。」

そう言いながら、彼女が差し出した
スマホに流れていた動画には、
6歳ぐらいの男の子が映っていた。
恐らくチームメイトと思われる少年たちが
まわりに居る。

その中で、その少年は、
「スペインは3回もゴールを揺らしたけど、
日本は1回しか揺らせなかった。
でも、16年後のオリンピックでは、
僕がピッチに立って、スペインのゴールを
4回揺らして、スペインに勝つぞ!」

その言葉を合図にしたように、
まわりの子供たちも歓声をあげている。

私は、その動画を見終えてから、
一言、呟いた。
「幸一の言う通りだ。
この日本に、モーリタニアが追いつくのが、
次の俺の夢であり、目標だ」

私の言葉を首をかしげながら聞いている
よしみに、昨日の出来事を説明した。

色々な思いに包まれた
フランスでの滞在だったが、
「黄金世代の終焉」と引き換えに
新たな「夢」という、
素敵なお土産ができた。


(終わり)

本作はフィクションです。
パリオリンピックで起こった
実際の出来事をモチーフにしていますが、
その出来事自体、あるいは
それに関係する人々に対しての
意見などを示すような意図ではなく、
あくまで「娯楽」として、
実際の出来事を題材とした
「もうひとつのストーリー」として
書いたものです。
ですので、繰り返しですが、
本作は完全なフィクションです。

























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