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泣き顔のピエロが笑ってるらしい

とある映画の記憶に残った一言
正確ではないかもしれませんが

「両面性どちらも愛してあげる事は難しいですか」

この問いは
自閉スペクトラム症の娘を育てる私に
静けさをくれた


年長の娘には二面性があって
園の先生方に見せる「頑張り屋さん」の面と
家で両親に見せる「まだ赤ちゃんでいたい私」

その差が、
太陽と月、天と地、北極と赤道直下、くらい違う。

「内と外と、違って普通だ」というあなたの想像の三倍は内と外の様子がかけ離れていると想像してほしい。


朝、激しく登園渋りをして
何をするにも–慣れない体操着に着替えるのに1・2渋り、玄関に行くまでに1渋り、靴下はくのに1渋り、靴はくのに1渋り、玄関出るのに1渋り、車に乗っても降りるのに1渋り– と、途方もなく時間をかけて
私の手を煩わせる。

私は仕事を遅刻するわけにいかないから心を鬼にしつつ、「明日は休みだから」とか見通しやご褒美を示しながら
見えない手で強く背中を押し続ける。

テコでも動かない物を動かすかのようなその作業の為に頭に血が上ったのを冷ます術は私は未だ持ち合わせない
仕事が始まっても、雑念のように行った後の娘の状態や
今後もこういう朝が続くことへの憂鬱に包まれて仕事をなんとか終わらせる


そうしてようやくその日の仕事を終えて、

担任と話をすると
「笑顔で来てくれていて、運動会の練習もよくやっています」

と。


・・・拍子抜けする。


あの「行きたくない」という
必死な訴えは一体何だというのか。


こういう事は1度や2度では無い。
どの担任になっても同じことが起きる。




両面性さえも、その人の全てだと受け入れて上げられますか


よく言われるのは
「外で暴れて、家ではお利口さんっていうパターンの方が大変ですよ。」
というものだ。
確かにそれも一理あるだろう。

けれどそう言われたって、家での大変さを、家以外の人と共有できない苦しみは消化されずに、心の奥底にまた鉛の如く重く沈み、冷たい場所になる。

その冷たい場所を他の部分で温められるうちはいい。
自助で温めきれないほど養育者が溜めてしまったら、その冷たさは
子供へと向かってしまう。


心を暖めて欲しい娘と
暖めてあげたいけれど、自分自身の心も冷え切ってしまった親。

娘が怒れば親も怒る
娘が荒れれば親も荒れる
親なんだから、という精神論はもはや通用しないほど
心が冷たく固くなってしまう。



「外でいい顔して、家で素性が出せる」というのは、良いことだと、美化されるのは何故だ。

外ではいい顔する人が、実は大きな問題を抱えている事がある。
DVで妻を奴隷化し、娘を躾といって冷水をかけ続け致死させた夫がいた。

それでも、「外面が良い方がいい」なんて言えるだろうか。
激しく疑問に思う。

家庭内で辛い思いしている人が居ても、それでも、外で頑張る人のために犠牲であらなきゃいけないのか。

犠牲を負っていると、思う自分の心を
私は隠さないでおこうと思っている。


少子化を「家だけの問題にすると解決しない」と、近頃はよく巷でも問題視する声が聞かれる。
子供と家庭の声に、世間が耳を傾けてはくれないだろうか。


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