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73.じっと息をひそめて

久しぶりに職場に戻ったボクを、同僚たちはあたたかく迎えてくれました。ある人は「大変だったな」と慰めの声を掛けてくれ、ある人は何事もなかったかのように、ただそっとしておいてくれました。

それでも、やっぱり誰もが事情を知っているわけではない。
ボクにもうすぐ子供ができる、ということまでしか知らない人の中には「そろそろ産まれた?」と笑顔で話しかけてくる人もいました。事情を話すと、必ずお互いバツの悪い空気になりました。

別にその人は悪くない。
その人はただ父親になったボクを祝福し、喜びを分かち合いたいだけだ。当然、悪意なんか微塵もない。
臨月に入って出産予定日も過ぎた子供が、生きて産まれてこなかったなんて、普通は想定しないだろう。誰だって。ボクだって。
だから、もう産まれたかと聞いてきたその人は何も悪くない。デリカシーに欠けているわけでも、思慮が足りないわけでもない。バツの悪い空気も、その人のせいじゃない。
ただただ、タイミングが悪かっただけだ。

それでも…やっぱりつらかった。

ただ自分の仕事に没頭しているときはいい。でも一息ついたとき、ふと集中力が切れたとき、またすぐにココのことを思い出す。いろんなシーンがフラッシュバックする。動揺して、落ち着きがなくなって、時には人前でも涙が出そうになる。

感情の波にのまれてしまわないように、コントロールを失わないように、自分のバランスを保つのに毎日必死でした。仕事帰りの車を運転しながら大声で泣いたことが何度もありました。

奥さんのこともいつも心配でした。奥さんは結局仕事を退職し、ひとり家で過ごしていました。
きっと、ずっとココのことを考えながらボク以上につらい時間を過ごしているに違いありませんでした。

時間が必要なのはわかっていました。ボクたちは小さく身を寄せ合って、ただじっと息をひそめて、この激しい感情の嵐が通り過ぎるのを待っていました。

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