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74.希望と絶望

奥さんは、お葬式でココのお棺を包んでいた布で小さなかわいいぬいぐるみを作り、ボクたちはそれを肌身離さず持ち歩くようになりました。最後にココを守っていてくれた布には何か特別な力が残っているような気がしていました。

他にも奥さんはココの骨壺のカバーを作ったり、もらったお花をドライフラワーに加工したりもしていました。

ボクもしばらく離れていた趣味をまた始めました。

写真立てをたくさん買って、家じゅうにココの写真を飾りました。その写真に毎日話しかけました。

「ココに会いたいな」
「ココがいなくて寂しいな」
弱音はお互い遠慮なく話し、慰めあいました。

オシャレなカフェを探しては、週末ごとに二人で遊びに行きました。

お互いにいろんな情報を集めて教えあいました。グリーフケアのこと、死産のこと、産後の過ごし方のこと、そしてまた再開するかもしれない不妊治療のこと。

ココの死を受け入れるために、やるべきことはわかっていました。

ココの思い出を大切にして、
夫婦でいたわりあって、
できることから順番にもとの生活に戻していって、
ムリせず、焦らず、時間をかけて。

そうしていけばボクたちは必ずこのつらさを乗り越えられるという「希望」をもって過ごしていました。

それでも、それでも。

ボクはこのころ、自分でもよくわからない精神状態に陥っていました。
何をするにも自信が持てないのです。仕事も、趣味も、人との会話や車の運転でさえも。
失敗するかも、間違えるかもということを心配しているわけではない。いつも通りやればうまくやれることはわかっている。
でもその行動の先に、うまくやれた先にあるものは、ボクが望んでいる結果ではない、と思ってしまうのです。それは「がんばっても意味がない」という無力感とも少し違う感覚でした。

正しい行動を積み重ねていけば、最後は自分の望む結果に行きつくはずだ。でも、ボクが本当に望む結果に行きつくことはもう決してない。それでも、ボクの行動は正しいといえるのだろうか?

もちろんボクが本当に望む結果とは、ココのことでした。

ココが奥さんのおなかに宿ってから、ボクはココのことを最優先に行動してきた。最後の最後までどこも手を抜かなかったし、何も間違ったことなんかなかったはずだ。ボクはベストをつくしたはずだ。

それなのに…
ボクなりのベストは、ボクが正しいと思ったことは、最終的にボクの望む結果とはつながっていなかったし、これからもつながることは絶対にない。

そう考えると、これから自分がやることなすことに対しても自信がなくなっていきました。それはたぶん「絶望」という状態でした。

死にたいと思うほど病んではいなかったけど、まぁそれもいいかな程度には思っていた。ココに会えるのなら、それもいいか程度には。せめて夢に出てきてほしいと、見たい夢を見る方法なんてものを本気で検索したりしていました。

「希望」をもって懸命に努力はしていたけど、「絶望」はいつまでも重くのしかかってきた。

そんなつらい日々に少しの光が見えてきたのは、3月のはじめに届いた一つの小包からでした。

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